歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記アメリカ合衆国の歴史湾岸戦争

湾岸戦争

 
 湾岸戦争とは、イラクのフセイン大統領が1990年8月クウェートに侵攻し、これを占領。国連安保理はイラクに対して期限までに撤退するよう求めますが、フセイン大統領はそれに応じなかったため1991年1月、アメリカを主力とする多国籍軍が空爆を開始して始まった戦争です。

 では、この湾岸戦争について少し詳しく見てみましょう。

 
まずは、湾岸戦争の原因からです

 湾岸戦争が始まる10年ほど前にはイラン・イラク戦争がありました。イラクがイランの石油利権を得ようと戦争をけしかけたんですね。1980年のことです。

 実は、この時のアメリカはイラクのフセイン政権を支援していたのです。

 なぜ、この時にはアメリカはイラクを後押ししていたのかというと、それ以前にイランで
イラン革命というのが起きます。イスラム原理主義勢力が国王を失脚させイスラム教シーア派のホメイニが政権についたのです。それまでのイランはアメリカの援助を得て近代化を進めてきたのですが、その結果貧富の差が激しくなり、不満の声が出始めイラン革命が起きたのです。この事態にイスラム原理主義の拡大を恐れたアメリカはフセインのイラクを支援します。

 しかし、このイラン・イラク戦争は長期化することになります。しかも、勝敗がはっきりしないまま1988年に終わってしまったのでイラン侵攻に失敗したイラクは経済的にもピンチに立たされるのです。しかも、戦争で借りたお金を返さないのでアメリカからは、食料品の輸出制限や工業部品の輸出も拒まれる・・・。この経済状態を何とかしなきゃならないとイラクは当然考えます。

 イラクは輸出総額の90%を石油に頼るため石油で経済を復興させるしか道がない訳なのですが、そんな状態の時にお隣のクウェートがOPECというアラブ石油輸出機構で決められた約束を破って大量に石油を増産していました。おかげで石油の価格は値下り・・・。これ以上、石油の価格が下がってしまったら国の復興どころか破綻しかねない状態にまでイラクは追い込まれます。

 そこにクウェートがイラクとの国境をまたがるルメイラ油田の発掘を行いイラクの怒りは頂点へと達します。「それ、イラクの石油も吸いとってない??」って感じです。

 そして、イラクのフセイン大統領はついに経済復興のためクウェート侵攻を決意するのです。

 クウェートをやっつければ、クウェートの豊かな石油資源も手に入りますし、石油価格の下落も阻止できますからね。

 しかし、このクウェート侵攻が国際的に大きな避難を浴びることになります。

 
アメリカの湾岸戦争参戦

 イラクがクウェートに侵攻した直後にアメリカや世界中である映像が繰り返し放送されました。

 クウェートから脱出してきた難民の少女がアメリカの下院議会にて「イラク兵はクウェートの病院まで攻めてきて赤ちゃんを保育器から出し殺すところを見ました」と涙ながらにクウェートでの現状を訴える映像です。

 また油まみれになった水鳥の映像も繰り返し放送されます。これは、イラク軍がペルシャ湾に原油を流出させたためにこのような状態になっている世界中に訴えかけられたのです。

 これらはアメリカや世界の世論を大きく動かし湾岸戦争へ突入する一因となります。

 しか〜し!実は、この映像は後に完全なる「やらせ」であったことが発覚します。

 まず、クウェートの難民の少女。彼女は本当のところクウェート駐米大使の娘だったことが発覚!しかも、クウェートに一度も行ったことすらなくずっとアメリカに住んでいた・・・。



 水鳥の映像もアメリカ軍が誘導爆弾にてゲッティ・オイル・カンパニーの原油貯蔵施設から流出させたことが明らかになります。

 誰が?なぜ?こんな事を仕掛けたのか?それは、分かっておりません。しかし、昔から言われているように「戦争は儲かる」というのは事実のようです。

 1989年の冷戦終結で破綻寸前にまで追い込まれたアメリカの軍事産業では湾岸戦争にて多くの利益を得ている有名会社もありますし、コンピュータ会社や石油会社も高利益を稼いでいます。また、戦後は破壊された建物などの復興のために整備事業を行う必要がありますが、湾岸戦争終結時にこれを請け負った多くはアメリカの企業でした。

 まぁ、疑惑の追及は、この辺にしておきましょう。次は湾岸戦争の経過と結末です。

 湾岸戦争の経過と結末
 
 1990年8月8日にイラクはクウェートを軍事的に制圧し「クウェートをイラクの19番目の州とする」と宣言。これにアメリカを中心とする多国籍軍がイラクへの攻撃を開始し湾岸戦争が始まりました。

 1991年1月には多国籍軍による空爆開始。2月24日には地上戦も始まり、この後僅か100時間あまりでイラク南部とクウェートは多国籍軍に制圧されます。

 そして、1991年4月にはイラクが「国連安保理決議687」を受理し停戦となります。この議決はイラクが保有する大量破壊兵器の破棄などを義務づけたものです。

 湾岸戦争における多国籍軍側の死者は200〜400人あまり。対するイラク軍の死者は2万〜3万5千人以上といわれています(数字には諸説ありますが)。もう、圧倒的にアメリカと多国籍軍の勝利です。これにより、イラクはもはやアメリカと対立することはないだろうと考えられていましたが、そうはなりませんでした。

 イラクは再軍備を進め1996年。フセインはクルド人へと攻撃を仕掛けるのです。

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