歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記織田信長>石山本願寺
   

織田信長・石山本願寺(石山合戦)

 
 織田信長・石山本願寺

 永禄11年(1569年)。織田信長は、足利義昭を奉じて京都に入ります。これにより、足利義昭が室町幕府の第15代将軍となるのはほぼ確実。そして、織田信長は将軍家の名目で石山本願寺には5000貫の軍資金や京都御所再建のお金を求めました。

 石山本願寺とは、親鸞を開祖とする一向宗(浄土真宗)の本山で、8代蓮如によって開かれました。

 この石山本願寺の財力は、有力大名と肩を並べるほどだったといわれます。その石山本願寺の財力に目をつけお金を要求した訳です。そして、もうひとつの要求を信長は石山本願寺に突きつけます。

 本願寺の場所を移して、石山を引き渡せ!

 この石山とは、後に豊臣秀吉が大阪城を築いた場所で、貿易、交易の拠点として優れた場所でした。その場所を引き渡せといわれ、「はい、そうですか」と簡単に渡すわけにもいかない。

 本願寺側は、5000貫の軍資金には素直に応じ、何とか退去要求はかわそうと試みます。

 とはいえ、いつまた信長から退去の命令がくるかもわからない・・・。本願寺側にも信長への不信感と敵意が募っていきます。

 
(顕如像)
 
 そんな中、元亀元年(1570年)、織田信長は三好氏が拠点とする野田砦と福島砦を攻撃。この野田・福島の砦の対岸にあるのが石山本願寺。この砦を攻め落とされれば、信長が次に狙うのは、この石山本願寺!そう考えた顕如は、「本願寺の危機である!」と三好方を攻撃中の織田軍に攻撃を仕掛けます。結果、この戦いは信長の優勢で終わるのですが、その後も10年に渡り、石山本願寺と織田信長は争っていくことになります。

 石山本願寺の顕如は、全国の門徒に信長との全面対決を訴え、長島の一向一揆など、その声に答えた門徒達が信長と対決していきます。信長は、これに手こずりながらも長島、近江、越前、加賀の一向一揆など地方における本願寺勢力を次々に潰していきました。

 石山本願寺への本格的な攻撃を信長が開始したのは、1576年に安土城を築き上げたころから。激戦の末、本願寺の軍を石山城内に閉じ込めた織田信長。しかし、難攻不落の石山本願寺をいかにして攻略するか?信長は、兵糧攻めにでます。陸地では、本願寺の4方10箇所に砦を築き、大阪湾からの兵糧搬入も水軍で海を包囲します。

 しかし、本願寺と連帯する毛利の水軍は強力。そこで、織田信長が開発させたのが巨大な軍艦でした。船は鉄板で覆われ、大砲が装備。これが日本で初の巨大鉄船だといわれています。

 この軍艦のおかげで織田の水軍でも毛利水軍を圧勝。
 
 これにより、兵糧不足におちいった本願寺は、1580年ついに和議を受け入れ、城の者すべてを助けてやる代わりに、石山を引き渡せという織田信長の要求に答え、顕如は石山本願寺を開城しました。


姉川の戦い


長篠の戦い