十字軍の遠征
|
十字軍の遠征は、11世紀の末からおよそ200年間行われました。第1回目の十字軍遠征は1096年。きっかけは、トルコ系のイスラム王朝であったセルジューク朝が東ローマ(ビザンツ)帝国を脅かし、これに危機を感じた東ローマ皇帝アレクシオス1世がローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことから始まります。
それでは、この十字軍の遠征についてざっくり見ていきましょう。
第1回十字軍遠征
セルジューク朝に圧迫され、アナトリア半島を占領されてしまった東ローマ帝国。皇帝アレクシオス1世は、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を要請します。この時の大義名分は聖地エルサレムの奪還。キリスト教にとってエルサレムは聖地なんです。イエス・キリストが教えを述べ、処刑され、そして復活した地がエルサレムですからね。しかし、イスラム教にとっても実は、エルサレムは聖地なんです。ムハンマドが一夜のうちに昇天する旅を体験した場所がエルサレムとこの地はキリスト教にとってもイスラム教にとっても重要な地なんですね。
とはいえ、東ローマ皇帝の当初の依頼は備兵の派遣。ですが、ウルバヌス2世は、この機会を大いに利用します。当時は、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝との間に聖職者の任命権をめぐる争いなどがあったんです。ここで一発、何か自分で主導権を握った大きなことを成し遂げ、発言力を強めたかったのでしょうね。
ウルバヌス2世は大演説をぶちかまし、神の正義のもとに多くの人が酔いしれます。「異教徒により聖地エルサレムが強奪された!彼らは、神を侮辱し、教会を焼き尽くし、悪の限りを尽くしている!異教徒どもから聖地を取り戻すべき戦おうぞ!」って感じです。そして、聖地エルサレムを奪還すべく十字軍が結成されるのでした。
第1回十字軍には、フランス諸侯を中心にドイツ諸侯らも参加し組織されます。
結果的には、聖地エルサレムを奪還。ここにエルサレム王国が建国されました。
第2回十字軍遠征
その後、エルサレム王国の他、十字軍の諸侯らによりいくつかの国が建国され、これらは十字軍国家と呼ばれました。また、巡礼者や商人の聖地への道中の安全を確保する為にエルサレムに設立されたテンプル騎士団や傷病兵の保護に活躍したヨハネ騎士団など多くの宗教騎士団が設立されました。
その後、セルジューク朝が盛り返しをみせ、エルサレムの北の十字軍国家のひとつであるエデッサが占領されてしまいます。そこで、1147年、ドイツ皇帝やフランス王が中心となり第2回十字軍が派遣されました。しかし、これは失敗。東ローマ皇帝は、この時期イスラムとの間に比較的安定した状態を保っていた為に十字軍を歓迎しなかったのですね。また、十字軍らの間で統率がとれていなかったのも失敗の原因といわれています。
第3回十字軍遠征
1187年イスラム勢力のアイユーブ朝のサラディンがエルサレム王国を滅ぼし占領します。これに教皇グレゴリウス8世が呼びかけをし、第3回十字軍が結成されました。
この第3回十字軍には、有名どころが集まってきますよ。イギリス国王リチャード1世。ドイツ(神聖ローマ)皇帝フリードリヒ1世。フランス王フィリップ2世。
まず、はじめに動いたのはフリードリヒ1世。彼は、進撃を続けるも途中の運河で溺死してしまう。リーダーのいなくなった部隊は、解散、帰国、敗北となってしまいます。
続いて1191年には、フィリップ2世とリチャード1世が出陣!この2人は別々の海路で行動していきます。リチャード1世は、途中キプロス島という地中海上の島を落とし、エルサレムの手前の港街であるアッコンの街を占拠。さぁ、いよいよエルサレムへの攻撃だ!という時にこともあろうか、フリップ2世とリチャード1世は争いをはじめてしまうのです・・・。
これで、ふてくされた?フリップ2世は帰国。残されたリチャード1世は、なんとかがんばるんですけど、本国で弟が王位を狙っているとの情報が入り、リチャード1世はサラディンと和睦を結んで帰国しました。
この時、サラディンとリチャード1世が和睦したことにより、キリスト教徒も巡礼の目的でエルサレムを訪れることは許されることとなります。
第4回十字軍遠征
もはや4回目ともなると、もう訳わからなくなってきてしまいます。もはや、純粋にイスラム勢力との争いというものではなくなってきてしまうんです。
エルサレムではなく、イスラムの本拠地であったエジプトを攻略しようと教皇の呼びかけに結成された第4回十字軍。しかし、肝心の戦費が集まらないんです。
そこで、困った十字軍は同じキリスト教徒の街を襲撃し、戦費を調達してしまいます。これには、教皇も大激怒!教皇は、遠征軍全体を破門とします。後に、その理由を聞き破門は解かれるのですが、しかし、資金がないのは事実。
今度は、ヴェネツィア商人らの東ローマ帝国や商売敵のコンスタンティノープルを攻略してくれるのら、喜んで資金を出しますよ〜。という誘いに乗り1204年には、コンスタンティノープルを占領。ここにラテン帝国なるものをつくってしまいます。
もともとは、東ローマ帝国の救援で始まった十字軍なんですけどね。もはや、その東ローマの首都であるコンスタンティノープルが十字軍によって攻撃、占拠されるという、意味わからん状態になってきます。
まぁ、学生さんで重要なのは、この辺までですね。第1回、3回、4回を覚えておきましょう。
第5回十字軍遠征
ここからは、ざっくり・・・。第5回十字軍遠征については、1219年から1221年にかけてのエジプトカイロに向かって失敗に終わったものを第5回十字軍とする場合もありますが一般的には1228年神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が指揮した十字軍のことをいうことが多いです。
このフリードリヒ2世はイスラム勢力アイユーブ朝のスルタンと協定を結び、話し合いで一時的にではあるけれども聖地エルサレムは返還されます。戦わずに話し合いですましてしまったんです。おぉ、なんと平和的!しかし、実際は、エルサレムへの統治にはイスラム勢力も関わっており、完全な聖地回復とはいえなかったんですね。その後、エルサレムはホラズム系トルコ人に奪われてしまいます。
第6回・7回十字軍遠征
6回・7回の十字軍遠征は、ほぼフランス国王ルイ9世が単独でやった戦いです。6回の相手はエジプト。当時のエジプトはマルムーク朝です。海路で向かい攻撃しますが失敗。7回は1270年でチュニジアを攻撃しますが、途中でル9世が亡くなってしまい、これが十字軍遠征の最後となります。
十字軍の完全な終結の年は?と聞かれたら1291年ですね。十字軍遠征はヨーロッパ勢力の敗北によって終わりを告げます。
では、最後に十字軍が与えた影響を見てみましょう。
十字軍の与えた影響
まずは、ローマ教皇の権威の失墜です。まぁ、相次ぐ失敗ですので当然といえば、当然ですね。
しかし、皇帝や国王の権威は高まります。教皇と違い、彼らは、遠征に自ら体をはって戦いましたからね。
経済的な影響もありました。地中海を中心に商業活動が活性化、とりわけ北イタリアの諸都市が繁栄します。十字軍やその物資の輸送などから貿易が持ち直したんですね。まぁ、1回目と2回目は遠征の経路が陸路でしたが、3回目は陸路と海路の併用。4回目以降は海路が中心でしたからね。それまでは、7世紀のイスラム勢力の進出以降、地中海は、完全にイスラム勢力のものになっていたんです。それが、ヨーロッパ勢力も進出し交易ルートを押さえることができた訳ですので、まぁ、十字軍も完全なる失敗という訳でもなかったわけです。ヨーロッパの商人にとっては、大成功だったんですね。
また、文化的な影響もありました。まぁ、戦争していたとはいえ、交流もあったんです。イスラム文化やビザンツ文化。さらに、その2つの世界で育まれたギリシア文化が西ヨーロッパに伝わっていきます。
12世紀には「12世紀ルネッサンス」と呼ばれる新しい文化が生まれ、それまでキリスト教一辺倒であった西ヨーロッパの文化に刺激を与えることになりました。
十字軍の遠征は、足掛け200年ですからね。それだけ、いろいろなところに影響を及ぼしていたということです。
<ビザンツ帝国
>中世イギリスの歴史
|
|
|
|