カラカラ帝(アントニヌス勅令)
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ローマ帝国が最盛期から一転。混乱期へと突入していく。そんな時期にアントニヌス。通称カラカラは皇位につくことになります。
5人の皇帝によって「人類史上もっとも幸福であった80年」とも言われる五賢帝時代。その最後の王、マルクス帝の息子であるコンモドゥス帝は、政治を側近に任せ自身は遊んで暮らすといった生活を続けていた為に暗殺されてしまいます。
その後、帝位をめぐる争いとなりますが、それを勝ち取ったのがカラカラの父セプティミウス・セウェルス帝でした。その父親が211年に亡くなるとカラカラは弟のゲタと共に共治皇帝となるのでした。
「カラカラ」と「ゲタ」って・・・。なんとも覚え易い名前ですね。しかし、実際は笑ってもいられない。翌年の212年にカラカラは弟のゲタを殺害してしまうんです。
そして単独皇帝となった彼は「アントニヌス勅令」を発布します。アントニヌスというのは彼の本名ですよ。カラカラはあだ名。幼い頃からガリア風のフードつきマントを好んで着ていたらしい。そこからついたあだ名です。もはやあだ名の方が有名ですけどね。
アントニヌス勅令のよってカラカラは、帝国内の全自由市民にローマ市民権を与えます。ローマ市民権っていうのは、まぁ選挙とか婚姻とか所有権とか裁判権とかっていう権利を与えるってことです。これを属州民たちにも与えたんですね。
何でこんなことしたかっていうとローマ市民にのみ課せられていた税金も権利をあげる代わりに徴収できる。相続税とか奴隷解放税とかね。権利あげるから税金ちょうだいねってことです。
属州の中には税金逃れや逃げちゃう人も多くいたので、それらを抑えて国のお金をしっかり頂きたいっていうのが狙いですね。
しかし、このカラカラ帝は217年に東方遠征中に親衛隊の兵士によって暗殺されてしまいます。まぁ、多くの民衆を残虐したり巨費を投じて自身の別荘や劇場を建てたり、金持ちからは財産を没収したり、重税を課したりと恨まれることはたくさんしていたようですからね。「ローマ帝国衰退史」っていう本を書いたエドワード・ギボンにいわせれば、カラカラは「人類共通の敵」とまで評していますからね。
そして、彼の後を継いだのがマクリヌスという親衛隊長官でした。
カラカラ帝で有名なものでカラカラ浴場というのがあります。カラカラ帝がつくったテルマエ(銭湯)みたいなものですが、面積約2万5千平方メートルもあり図書館や競技場なども併設されていたといいますので、超スーパー銭湯ですね。どうも後世に名を残したいと造ったようです。
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