松平定信は田沼意次を恨んでいた?
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松平定信 |
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1767年〜1786年、田沼意次は幕府の財政再建の為、次々に政策を打ち出していきます。そして、その後1787年〜1793年に改革を行ったのが松平定信の寛政の改革です。
この松平定信という人。松平という名前なので松平一族の大名が老中として力をつけ政治を行ったと思われがちですが、実は、本来将軍にもなれる位置にいた人物でした。
松平定信は8代将軍吉宗の孫です。しかも、10代将軍家治には子供がおらず、次に将軍を誰にするか選ぶ必要がありました。
当然、松平定信も将軍候補として上がってきます。しかし、そこで動いたのが老中、田沼意次です。秀才といわれる定信が将軍となってはやりにくいと田沼意次はかなり強引に定信に養子縁組の話を持ちかけ、地方大名の養子としてしまいます。これで、松平定信は将軍候補から脱落。後に将軍となったのは、吉宗のひ孫の家斉でした。
とはいえ、もともと才のあった松平定信はやはり地方でも頭角を現してきます。飢饉の時などは、あらかじめ食糧不足になることを想定し米を買占め、それを配給するシステムまで考えています。また、飢饉では疫病が発生することも想定し、薬も買占めていました。また、飢饉が本格化する前には、まだ江戸で稗やふすま、海藻類などが売られていたので、兎に角、口に入るものはなんでも買い占めておけ!と買占め、結果、他の地域では餓死者が多数出ているのに対して松平定信の領内では、一人の餓死者も出すことはなかったといいます。
そして、松平定信にもいよいよ中央政界に、華々しくデビューするときがやってきました。
相次ぐ天災による田沼意次の政治に対する不満と将軍家治の死です。これにより田沼意次は失脚。そして、吉宗の孫であり、地方政治でも見事な采配を振るった松平定信が30歳という若さ老中となるのです。
本来は、将軍となれる立場でありながら、田沼意次により、その権利を剥奪されてしまった松平定信。彼は、後に田沼意次の政治や賄賂を強く非難し、重商主義といわれる田沼の政治とは打って変わって吉宗時代の政治を理想とした改革に乗り出していきます。
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