当時は、田沼意次時代の重商主義政策(商業を重んじる考え)の結果、農村から都市へと大量に人が流出してしまったり、天明の大飢饉(1782年〜1788年)によって農村は荒れ始めていました。その農村を正常に戻し、収穫を上げると共に、再び起こるかもしれない飢饉に備えた訳です。
次に、棄捐令(きえんれい)といって借金に苦しむ旗本などの為、1784年以前の借金は帳消し、1785年以降の借金は利子を下げるように命じました。
また、寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)といい朱子学以外の学問を禁止します。朱子学は身分の高い人へは絶対服従を唱えていたので幕府にとって都合がよかったようです。
これらの政策は当時の人々にとっては堅苦しいと感じられていたようで、「白河の清きに魚も住みかねて 元の濁りの田沼恋しき」と詠まれた短歌が残っています。白河とは白河藩主だった松平定信のこと、田沼とは田沼意次のことのようで、松平の政治は非常にクリーンでまじめだけど、賄賂などで濁っていた田沼の時代のほうがよっぽど生活しやすかったなぁ。というのをすごく遠まわしに詠んだ短歌のようです。
この短歌でわかるように支持率は低かったようで、松平定信は僅か6年で失脚。寛政の改革は失敗に終わります。
|