田沼意次の政治の特徴は、重商主義といわれる商業を重んじる考え方にあります。まぁ、現在と同じですね。当時の幕府の収入と言えば年貢、つまりお米です。しかし、米価の下落や飢饉、一揆などによりそれらも限界を迎えていました。そこで、田沼意次は商人からもお金をきっちり受け取ろうと考えたわけです。
当然、商人達からは不満の声がでますので、株仲間を奨励します。株仲間とは、お酒とかしょうゆとか同じものを売る人たちが集まって作る組合みないなもの。その株仲間から冥加金(みょうがきん)といって幕府はお金を受け取ります。その代わり、冥加金を納めた株仲間には商売に有利なように独占権などを与え、株仲間に入っていない人は商売を禁止したりするわけです。しかし、この制度では、賄賂が多発したと言われています。政治家に少しくらい多めにお金を渡してでも、商売により有利な条件をつけてもらったほうが商人としては儲かりますからね。
その他にも、今で言う公共事業にも積極的でした。今の千葉にある印旛沼(いんばぬま)の陸地化や蝦夷地(北海道)の開発プロジェクトも打ち出します。残念ながらこれらは実現できず。
この田沼意次の時代。不幸なことに後半は天災続きとなります。1782年には全国的な凶作におちいり、小田原付近を震源地とした大地震、浅間山の噴火。1786年には関東、陸奥で大洪水・・・。
田沼個人にも1784年に子の意知(おきとも)が江戸城内で斬りつけられ殺されるという事件も起きます。
この事件や社会不安の中、8代将軍 吉宗の孫である松平定信(まつだいら さだのぶ)らの勢力も強まり、田沼意次の壮大な政治政策は半ばで失脚させられてしまうこととなるのです。
田沼時代の政治政策 |
重商政策
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株仲間の奨励 |
商工業者の株仲間に営業権を公認する見返りに冥加金を1年100両でもらう。 |
公共事業
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印旛沼、手賀沼干拓 |
干拓地に新田を開発する計画。しかし、暴風雨で利根川氾濫。実現せず。 |
通貨統合
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明和五匁銀・南鐐二朱銀の発行 |
国内にて東では「金」、西では「銀」と通貨が違っていたので、通貨統一を目指し明和五匁銀は銀60匁で金1両。南鐐二朱銀は8枚で小判1両と交換可能とした。 |
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