名誉革命
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名誉革命とは1688年から1689年にかけてイギリスの王、ジェームス2世を王位から追放し、ジェームス2世の娘婿のウィレムとその妻であるメアリを新しい王として迎えたイギリスの革命です。
この過程において、大きな流血がなかったので、この革命のことを名誉革命といいます。
では、このイギリス名誉革命の内容について学んでいってみましょう。
なるべくわかりやすいようにピューリタン革命のころからお話ししますね。この革命で活躍したのがクロムウェル。彼は、ピューリタン革命の後、護国卿という立場となり独裁政治を行いました。
その後、クロムウェルが亡くなると跡を継いだのが息子のリチャード。しかし、彼はダメでした・・・。ですから、議会によって追放されます。そして、新たに王として招かれたのがチャールズ2世でした。
この辺で一回おさらいしておきますね。まず、ピューリタン革命でクロムウェルに処刑されてしまった王様がチャールズ1世。1649年の出来事です。そして、クロムウェルの独裁。その跡を継いだ息子はダメで追い出され、新たに王として招かれたのがチャールズ1世の息子のチャールズ2世です。
ちなみにクロムウェルやその息子は王様を名乗ることはありませんでした。護国卿という立場です。まぁ、実際は王様みたいなもんですけどね。ですが、チャールズ2世は違います。父親がクロムウェルに処刑されるまではイングランドの王様だったわけですからね。王様を名乗るわけです。ですから、これを王政復古といいます。古(昔のような)王による政治の復活です。
このチャールズ2世がまず何をするか?父親の恨みを晴らすんですね。父親の処刑命令書にサインした人たちを次々に処刑します。
さらに、チャールズ2世は、ピューリタン革命の時にフランスに逃げていたんですけど、そこでカトリックにかぶれちゃったのでしょうか?カトリックを擁護し始めます。これは、イギリスとしてはちょっと困るんですね。カトリック大国であるフランスの影響力が強まってしまう恐れがありますから。さらに、チャールズ2世はフランスの力を背景に王権を制限しようとする議会に対してプレッシャーを与えてきました。
議会もこれを黙っているわけにもいかないので反撃します。1673年に審査法を制定するんです。これは、公職に就任する人はイギリス国教徒でなかればならないという法律。つまり、カトリックはダメよってことです。ちょっと、国王と議会の間で溝ができてきましたね。
しかし、このチャールズ2世が亡くなると、さらに議会との溝が深まっていきます。跡を継いだのがチャールズ2世の弟であるジェームズ2世だったんですけど、この人はカトリック信者であることを堂々と公言するんです。チャールズ2世でさえ、空気を読んで公にはしなかったんですけどね。
このジェームス2世の即位に関して議会は2つに分かれ対立します。王様を重んずるトーリ党(地主が中心)とジェームス2世の即位に反対するホイッグ党(商工業者が中心)です。トーリ党は後の保守党となりホイッグ党は後に自由党になります。←この辺は、テストにたまにでますね。
ジェームス2世は、議会を無視してた多数の常備軍を組織したり、カトリックを擁護したりと議会は、困り果て、ついに1688年、ジェームス2世の娘婿であるオランダ総督だったウィレムとその奥さんであるメアリを王として迎え、ジェームス2世を退位させました。
これが名誉革命です。
その後、ウィレムはウィリアム3世に、メアリはメアリ2世となって2人の国王によるイングランドの共同統治が始まります。
つまり、夫婦でイングランドの王様になったわけなんですが、議会は一応条件を付けました。王様といえども議会の承認なしに法律の制定や廃止、また課税などをしてはいけないというものです。これを権利の宣言といいます。
2人は、この宣言をわかりましたよ〜。と署名、1689年の12月に、これを権利の章典として発布しました。
このことにより、議会の主権と立憲体制が確立したといえます。
立憲体制ってなんじゃいって思いますよね。これは、憲法にしたがって政治を進めるということ。憲法はわかりますね。あれをしちゃいけません。これをしちゃいけません。って基本的には、禁止事項が多く書いてあります。権力者が勝手に変なことができないようにするものですね。
この立憲君主制のメリットとしては権力者が勝手なことをやって大失敗しないで済むっていうところです。過去の経験を踏まえて「してはいけない」ことが書いてありますからね・・・。
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