織田信長の経済政策
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織田信長は、なぜ、あれほどまでに強かったのか?運が強かった。優秀な部下に恵まれた。カリスマ性が半端なかった・・・。などなどあるでしょうが、その1つに経済戦略があります。
まぁ、お金がなければ鉄砲も買えませんし、馬も買えません。秀吉の得意技であった兵糧攻めなんかは、めちゃくちゃお金が掛かりますからね。戦で勝利するためにも戦略同様にお金は重要であったわけです。
信長は、それを十分に理解していました。ですから、信長の旗印には”お金”が描かれています。
では、まず織田信長はどのような経済政策を行ったのか?その辺りを少し詳しく見ていきましょう。
楽市楽座
教科書で習いましたね。有名なのが楽一楽座です。それまでの商人は”座”という組合に入っていないと商売ができませんでした。つまり、新しく商売したい人がいても、”座”に入られない限りは商売ができないわけです。この座を信長は解散させます。
誰でも自由に商売して良いよ。ってことにしたんです。さらに売り上げ税なんかもちょっと安くします。すると、新しく商売を始めたい人なんかが信長の城下町に集まってくるわけですね。すると町が潤います。
さらに信長の場合は、往来する商人たちに城下町で宿泊することを義務付けたりもします。すると城下町でお金を使ってくれることになりますね。つまり、どんどん城下町が潤い、お金が集まるという仕組みを作ったわけです。
流通拠点を抑える
織田信長は、時の将軍足利義昭から副将軍の位を提案されますが断っています。そんなもんいらないから3つの町に代官を置く許可をくれ!と要求するんですね。それが、大津、草津、堺です。大津と草津はそれぞれ琵琶湖の西岸と東岸。堺なんかは当時の最大の貿易港です。この堺に信長は軍資金を要求します。また、堺は鉄砲の産地であり、刀や武具なども多く生産されていましたし、海外から入ってくる最新の武器なんかも多くは堺に集まっていました。つまり、堺を抑えるということは、日本の軍需物資を抑えることを意味しているんですね。
琵琶湖の西岸、東岸の大津と草津を抑え堺も抑えてしまうということは、東方面への経済封鎖を念頭に置いてのことと思われます。頭いいですねぇ。
貨幣の流通を整理
当時のお金の流通は今の感覚で考えるとメチャクチャでした。例えば、100円玉がありますね。財布の除くと結構汚れた100円玉もあるかもしれません。でも、100円はどんなに汚れていても100円の価値です。
しかし、当時は100円で飴を10個買おうとした場合、「うぁ、この100円玉汚いから飴7個としか交換しないよ」なんてことがあったわけです。100円が汚れていたら70円の価値になっちゃうんですね。
なんでこんなことになったかというと自分で勝手にお金を作っちゃう人がいたんですね。鉛とか鉄とか混ぜて安く作っちゃうわけです。穴がふさがっているものとか字が不鮮明なものとか偽銭が市場に出回っていたわけなんです。ですから、粗悪な銀貨は悪銭なんていわれて本来の価値より下げられて取引されていたんです。
また、中国からのお金なんかも使われていたりしたので円滑な流通が当時はできていませんでした。
そこで信長はお金の価値をきっちり決めたんですね。撰銭令(えりぜにれい)といいます。
中国のお金ときれいなお金は汚いお金5枚で1枚分の価値・・・。っていう具合にレートをしっかりと定め円滑な流通ができるようにしました。経済活性化ですね。
間所をなくす
当時、大阪から京都までなんと関所の数380カ所もあったといわれています。これじゃ、流通がうまくいかんでしょ。ってことで関所の多くを撤廃します。また、道路も整備するんですね。
これの何がすごいかっていうと普通は関所減らしたら敵が簡単に攻めてきちゅうでしょ。だから他の大名にはできないんです。しかし、信長は軍事力に自信があったんでやっちゃうわけですね。
城下町戦略
信長は居城をどんどん変えていったことでも有名ですね。城をどんどん作って移動していったわけです。城を造るなんてめちゃくちゃお金が掛かるわけですが信長の場合はしっかり城下町を繁栄させ経済活性化させていくわけです。
まぁ、楽市楽座にしても撰銭令にしても信長が初めて考え出したことではなかったんですけど・・・。誰もがやれたらいいなぁと考えてはいたんですが、やりきれなかったり寺なんかの圧力によって実行できなかったりしていたことだったわけです。それを信長は圧力に負けず、しっかりやり切ったんですね。
そこが信長のすごいところなんでしょうね。
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