ノルマン人の移動
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中世ヨーロッパでは、9世紀ごろからノルマン人が移動を開始し、ヨーロッパに大きな影響を与えることになります。
ノルマン人とは、もともとはゲルマン人の一派ですのでフランク王国などと同じ系統なわけですが、彼らは主に現在の北欧、スカンジナビア半島やユトランド半島あたりに住んでいて、海商活動や海上での略奪行為などを行っていました。そう、あの有名なヴァイキングですね。本来は、ノルマン人の異称がヴァイキングであったのですが、現在の日本ではヴァイキング=海賊となってしまっています。でも、本当はヴァイキングとは、ノルマン人のことを指すわけで別に海賊と限ったことではないんですよ。
さて、なぜそのノルマン人は移動し始めたのか?
移動の原因は、遡ること500年ほど前のゲルマン民族大移動に似ています。人口増加による耕地の不足などです。あとは、気候の変化やゲルマン人の国々が弱体化していたことなども考えられますね。
まぁ、彼らはヨーロッパのいろいろな地域に移動していきますので、わかりやすいように地域ごとに解説していきます。
ロシアに向かったノルマン人
9世紀ごろにノルマン人の一派(非ノルマン人という説もありますが)ルーシ族が現在のロシア領にあたる地域に南下していきます。このルーシ族の首長はリューリックという人です。
彼らは、そこにノヴゴロド国を建国(862年)。先住のスラヴ人やウクライナ人を支配しました。しかし、ルーシ族は少数であった為に、ほどなくしてスラブ人たちと同化してしまいますよ。
リューリックの死後も後継者はさらに南下していき882年にキエフ公国を建国しました。ちなみに、これらノヴゴロド国やキエフ公国は現在のロシアの起源とされています。
ノヴゴロド国は交易で栄え、1478年まで続くことになります。その後はモスクワの支配下に置かれます。
キエフ公国の方は、10世紀末に最盛期を向かえます。その時の首長はウラディミル1世。ギリシア正教を国教化したことでも知られています。しかし、その後11世紀後半には衰退。13世紀にモンゴル人のバトゥによって止めを刺されました。
フランス(西フランク)に向かったノルマン人
こちらのノルマン人の首長はロロという人。彼らは、パリを攻撃するほど深くまで侵入していきます。これに「やばい」と感じた西フランクの国王シャルル3世はロロに「ノルマンディ地方をあげるよ」と約束するという柔軟な姿勢をみせました。これにより成立したのがノルマンディー公国です。911年のことです。
イングランドに向かったノルマン人
9世紀にイングランドもノルマン人の一派デーン人の攻撃にあいます。当時、このイングランドの地にはゲルマン人の一派であるアングロ=サクソン人が国家を建国していました。そのアングロ=サクソンの王、アフルレッド大王は「彼らの強さは海戦力によるものである。」と、見抜き自分達も軍艦を製造し海軍を創設します。その結果、見事、デーン人を撃退。
ですが、その後もデーン人による攻撃は続き1016年ついにデーン人によってイングランドは征服されることとなります。この時のデーン人の王はクヌート。デーン朝の成立です。
彼は、その後、8世紀にデーン人が建国していたデンマーク王国、9世紀末に形成されていたノルウェー王国をも統一し、北海、バルト海一帯に大きな勢力を張りました。
しかし、その最盛期も長くは続きませんでした。クヌートが死んでしまうと後継者争いなどにより帝国は分裂・・・。1042年にデーン朝はアングロ=サクソン人により滅ぼされてしまいます。つまり、アングロ=サクソンの王の復活です!
だがしかし!このアングロ=サクソンの復活もすぐに終わりがきます。フランスに向かったロロというノルマン人がいましたね。そう、ノルマンディ公国を成立させた人です。その流れをくむノルマンディー公国のウィリアムがイングランド侵攻を決断。ヘースティングズの戦いにてアングロ=サクソン人を破り1066年イングランドにノルマン朝を開きました。
このウィリアム1世によってノルマン人によるイギリス支配が開始されたことを「ノルマン・コンクェスト(ノルマン人の征服)」といいます。
地中海へむかったノルマン人
ノルマンディー公国を打ち立てたロロの一派からの分裂一派。それを率いてロベール=ギスカールという人が地中海に進出します。そして、南イタリアに拠点を築き、また当時イスラムの支配下にあったシチリアにも進出しました。
1130年には、そのロベールの甥であるルッジェーロ2世が南イタリアとシチリアを併せて両シチリア王国を建国します。
<フランク王国の分裂
>中世ヨーロッパの封建制度
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