中世ヨーロッパの封建制度
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中世ヨーロッパというと、王様が大きな力を誇っていて・・・というイメージを持っている方も多いのではないでしょうか?しかし、実際の中世では、それほど国王の力が強くありませんでした。
しかも、現在のようにインターネットや電話は当然ないわけですし、交通も発達していなかったので外敵などが侵入してきたら、「王様助けて〜」っていっても、すぐに来てくれるわけでもない。もう自分で自分の土地を守るほかないんです。そうして、発展していったのが封建制度でした。
この封建制度は、日本史でも鎌倉時代以降で勉強しましたね。中国にもありました。封建制度では、主君は家臣に土地を与え、その代わり家臣は主君のために主に軍事的な奉仕を約束します。
では、これら日本や中国と中世ヨーロッパでの封建制度の違いはどこにあるでしょう?
それは、双務的契約関係であるという点です。双務的ということは、お互いに義務を持つということ。つまり、主君と家臣の間には上下関係はあるのですが、しかし、主君が契約違反をしたならば、家臣は関係を解消できるということ。主君が何らかの理由で土地などの約束したものを与えられないといった場合は、主君の命令に背くことも、主君のもとから去ることもできるってことですね。さらにいえば、同時に2人以上の主君に仕えることもできました。
たとえば、A君がB君と封建制度による主従関係を結ぶとします。そして、A君が主君となりB君が家臣となります。しかし、これだけでは外敵からの攻撃が不安だと感じ、A君はC君とも主従関係を結びます。A君よりもC君のほうがお金も武器も持っていそうだったので、今度はC君が主君となりA君はC君の家臣となります。と、いったようにちょっと複雑な主従関係も生まれました。
まぁ、本当は国王が皆を守ってあげればいいんですけどね。でも、遠いからなかなか守ってあげられないんですね。ですから、こういった関係ができてきたんです。また、これでわかるように実際、国王には、あまりお世話になってもいないんですね。ですから、大きな戦争でもない限りは国王の命令にも服することもありませんでした。不輸不入の権といって国王による課税や役人の立ち入りを拒むことさえできたんです。
かな〜り、ドライな関係といった感じですね。
ですが、この封建的主従関係はいつ頃から出来たのでしょうか?
起源はローマの恩貸地制(おんたいちせい)とゲルマンの従士制(じゅうしせい)に遡ってみることができます。
恩貸地制とは、力のない人が力のある有力者に自分の土地を献上して、その有力者から土地を借りるという形をとるというもの。まぁ、自分で命をかけて土地を守るくらいなら、力のある人に献上して、多少賃料が発生しようとも安心して農業経営に集中できるほうがいいですからね。この恩貸地制では、主君から土地を借り、年貢や賃料を払うというシステムですが、主君に対する軍役の義務はありません。
一方の従士制。こちらは軍役の義務が発生します。有力者に忠誠を誓い、その人のもとで従士として働くことで食料や武器を与えられました。
これらの内容のことなる制度が合体したのは8世紀頃といわれています。場所はフランク王国。当時は内紛や外敵による侵入などが目立ってきていたので騎士を確保する必要があったのですね。
この主従関係は当初は1代限りであったのですが、だんだんと世襲制へと変わっていきました。
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