李朝朝鮮(李氏朝鮮)の時代
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モンゴル帝国(元)からの独立を勝ち取った高麗。しかし、この高麗も倭寇(海賊)などの活動により衰退していくことになります。この倭寇の撃退で名を馳せたのが高麗の武将・李成桂(りせいけい)でした。
李成桂は、1392年に自ら高麗の王に即位します。李成桂は、王に即位すると国号を「朝鮮」としました。ちなみに、朝鮮という呼び名は、以前にも「箕子朝鮮・きしちょうせん」や「衛氏朝鮮・えいしちょうせん」という呼び名がありましたので日本では、これらと分けるために李朝朝鮮または李氏朝鮮と呼ぶことがあります。
この李朝朝鮮の首都は漢城(ソウル)です。
李成桂は、進んで明(中国)の文化や制度を取り入れ、明にならい朱子学(しゅしがく)を官学化したりもしました。今の韓国の国旗は「太極旗」といいますが、あれは朱子学の世界観を図解化したものですね。
また、この李朝で何と言っても覚えておきたいのがハングル(訓民正音)の制定です。これを制定したのは1146年のこと。制定したのは第4代国王・世宗(せいそう)の時代でした。
1592年には、この朝鮮に対して豊臣秀吉が侵略のために軍を派遣します。「文禄・慶長の役」ですね。朝鮮の人々がいうところの「壬辰・丁酉(じんしん・ていゆう)の倭乱」です。
この秀吉軍に激しく対抗し、活躍したのが朝鮮海軍の李舜臣(イスンシン)でした。韓国には現在でも英雄であり、銅像がいたるところに立っています。
この秀吉の朝鮮侵略の計画は、秀吉の死により日本軍の撤退という形で終わりを告げますが、朝鮮にとっても大きな打撃となりました。
17世紀前半には、清から攻撃を受け、朝鮮は清の属国となりました。
日本との関係は1607年。秀吉の死後、朝鮮通信使が日本に送られ関係を修復しました。
<朝鮮半島・高麗の時代
>日本による朝鮮植民地化までの流れ
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