琉球処分
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琉球処分とは、1879年に日本政府が琉球に600名あまりの軍隊を派遣し、島民の反対を押し切って沖縄県を設置した出来事です。これによって琉球王国が幕を閉じることになります。
それまでの琉球王国は、中国と日本(薩摩藩)と両属している状態でした。
明や清の時代に琉球王国は朝貢、冊封関係にありましたが、1609年に薩摩の島津家久に軍を送られ首里を占領されてしまってからは日本の薩摩藩の支配下にも入り、中国と日本の両属状態にありました。
ところが明治時代に入り事件が起こります。1871年、台湾に漂着した宮古島住民66人のうち54人が台湾先住民のパイワン族によって殺害されてしまうのです。
日本政府は1873年に清(中国)に対して、抗議しますが、清はパイワン族を「化外の民」(国家統治の及ばない民、文化の及ばない民)であるとして責任を回避するんです。
つまり、台湾の原住民は自国の領民ではないから知らないよ!と言っているようなもんです。
日本にしたら「清は気づいていないけど、コレ、チャンスじゃん!」と1874年5月に「我々は、日本の自国民である宮古島の住民殺害の征伐をするために台湾に出兵します!」と台湾に兵を送り組みます。
同年10月に清国駐在イギリス公使の仲介で日本と清は互換条約を取り決め、この時に清は日本に50万両を支払います。避難民に対して見舞金10万両。戦費賠償金40万両。当時の中国に、この意識があったのかどうかはわかりませんが、日本に対して賠償金を支払ったということは、宮古島の島民を日本国民として清も認めたということにもなります。
「日本が勝手に出兵して台湾とやりあってるのなんか知らんがな・・・。」とか「台湾はうちの領土だけど、日本が攻めてくるのは意味わからん。琉球と日本は関係ないし・・・」という姿勢なら琉球を日本と認めていないことになりますが、ちゃんと賠償金を支払ってしまっているんで、琉球の一部である宮古島の島民を日本国民と認めたととれるわけです。
1875年には明治政府は琉球に対して清への朝貢を禁止させ、1879年には明治政府によって琉球藩を廃して沖縄県を置くのでした。これが琉球処分です。
清は、日本に対して抗議しますが翌年には日清協約を結び、琉球は日本国であるということを清に認めさせるのでした。しかし、清は調印を延期します。協約を結んだのですが調印を延期。つまり、「望んではいないが、しぶしぶ認めます」という意思表示ですね。
日本は、台湾出兵にしても、琉球問題にしても、清に対して先手先手を打っていきました。これは、江戸末期に不平等ではあったものの欧米列国と結んだ国際条約のおかげで国際的な外交はどう対処していけばいいのかというのをすでに学んでいた日本と近代国民国家の観念をまだ理解していない清との差を表す、最初の象徴的な出来事であったわけです。
ちなみに清が沖縄の日本帰属を正式に認めたのは日清戦争の後になります。
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