摂関政治について
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9世紀の後半には、それまでの天皇親政に代わり、藤原氏による摂関政治(せっかんせいじ)が始まります。
では、この摂関政治について少し詳しく見てみましょう。
摂関政治とは、摂政(せっしょう)や関白(かんぱく)による政治ということで摂関政治といわれます。では、この摂政と関白の違いは何か?
摂政とは、天皇が幼少だったり、女性だったりした場合に変わりに政治を行う人のこと。聖徳太子が有名ですね。
関白は、天皇の成人後も代わりに政治を行う人のことです。
それまでは、この役職につくひとは天皇家から選ばれていた訳ですが(聖徳太子も天皇の血筋だよ)、藤原良房(ふじわらのよしふさ)という人が天皇家以外で初の摂政となり、その養子の基経(もとつね)も天皇家以外で初の関白となります。そして、その後は長きに渡り藤原氏による摂関政治が続き天皇をもしのぐ力をつけていくわけです。
この藤原氏。そもそも、なぜこんなに力をつけるようになったのかというと。ご先祖様が、あの藤原鎌足(ふじわらのかまたり)です。誰だって?ほら、大化の改新で中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と共に活躍した中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。その鎌足は、功績をたたえられて「藤原」の姓をもらったんですよ。
その藤原鎌足の子、不比等(ふひと)も大宝律令の制定で活躍し、その娘は聖武天皇の妃になった。そして、藤原氏は天皇家の外戚(遠い親戚みたいなもの)となり、摂政や関白の地位につき力を振るっていくのです。
その藤原氏の絶頂期が藤原道長(ふじわらのみちなが)の時代。彼はその栄華を「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」と歌いました。「この世は、俺のもんなんじゃない? 満月が欠けたことがないように俺って完璧!」みたいな感じですかね。
この人のすごいのは、自分の娘を3人、3人の天皇に嫁がせるというすさまじいことをやってのけます。66代天皇(一条天皇)、67代天皇(三条天皇)、68代天皇(後一条天皇)と・・・。これなら、殆ど何が起きても、自分の血筋が天皇家に残ること間違いなしですね。
しかし、この藤原道長は、実は関白にはなっておらず、摂政にも僅か1年しか付いていないません。995年に右大臣となり、同時に彼は内覧といって天皇より先に重要な書類に目を通すことのできる資格を得ました。この内覧の資格は、事実上裁決権をもっているといわれ、名誉ある関白の職よりも道長は実行力の強い権利をとったようです。
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