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歴史年代ゴロ合わせ暗記>下関条約

下関条約のおもな内容と賠償金の使い道

 
 日清戦争の後、日本は
下関条約によって2億両(テール)という現在の価値にして3億円以上のお金や台湾などの領土、日本側に有利な日清通商航海条約を結ぶことになるのですが、実は開戦間もなく、すでにと日本との間では講和の道が探られていました。
 
 日清戦争が正式に開戦したのが1894年8月ですね。そして1894年11月にはすでに講和の道が探られます。日本では、議会により巨額の軍事予算を可決し、さらに軍の近代化を進めるなどの効果もあり圧倒的有利に戦争を進めていたころです。清は、ドイツ人のデットリンクを日本に派遣します。しかし、日本は彼を正統な使節とは認めず追い返す!続いて1895年にも張蔭桓(ちょういんかん)らが広島を訪れますが、これも委任状に不備があると追い返します!清は早いうちに僅かな痛手で講和を進めたいと考えていたようですが、日本にとってはまだまだ行ける!と考えていたのでしょうね。

 そして、1895年3月19日。清国全権、李鴻章(りこうしょう)が来日し、やっとのことで講和交渉が始められることになるのです。日本側は首相、伊藤博文(いとうひろぶみ)と外相、陸奥宗光(むつむねみつ)が出席。場所は伊藤博文の提案で下関の料亭に決められます。伊藤は、長州の出身ですから下関にはなじみがあったのでしょう。

 ちなみに戦争後の条約は基本的には負けた国が勝った国に出向いて条約を結び、その場所の名前がつけられますね。だから下関条約ですよ。日露戦争では、ロシアが負けをなかなか認めなかったのでアメリカに仲介してもらいアメリカのポーツマスで条約を結んだのでポーツマス条約ですけどね。

 さて、この下関での講和会議では、途中、李鴻章が日本の自由党員に拳銃で撃たれ重傷を負うなどの事件が起きますが、それでも1985年4月17日には基本的に日本側の主張が認められ全11条からなる下関条約は調印されることになります。
 

 下関条約の内容
1:朝鮮の独立を認めること。
(この直後、朝鮮は大韓帝国と国名を変え、独立を宣言します)

2:遼東半島(りょうとうはんとう)を日本に譲り渡す。
(中国と朝鮮の間にある半島で日本の戦略的にかなり重要な土地です)

3:台湾を日本に譲り渡す。
(これにより日本は初の海外植民地として台湾を獲得しました。)


4:澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本に譲り渡す。
(これは台湾と中国本土の間の島々。)


5:賠償金2億両を日本に支払う。
(約3億1000万円。当時の日本の国家予算のなんと2倍以上のお金です)

6:日清通商航海条約を結ぶ
(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせた)



 第1条では、朝鮮の独立を認めさせていますね。これにより、朝鮮半島から清の影響力を排除し、日本は大陸進出の足がかりを手に入れることになりました。

 第2条では、遼東半島を手に入れています。しかし、遼東半島、その後の三国干渉によって清に返すことになってしまいます。ですが、日本は代償として3000万両を手に入れます。

 これで、日本は賠償金と遼東半島の代償金とで2億3000万両を手に入れたことになります。また、賠償金については7年の年賦だったので利子ももらえました。すると日本円になおして約3億6500万円を結果的に手に入れたことになります。戦争前年の1873年の国家予算の4倍以上のお金です。

 ですが、これが国民に使われたといえるのは、教育基金と災害準備金くらいのもの。およそ2000万円くらいです。ほとんどが軍事的目的で使われてしまいました。

 しかも、その後は三国干渉の恨みを晴らす!ってことで「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合言葉に増税を行っていくことになるんですね。これで国民の生活は苦しくなり、逆に軍需産業なんかの資本家はがっぽり儲けることになります。

 
 下関条約で獲得した賠償金のおもな使い道 
日清戦争戦費 22% 海軍拡張費 46%  陸軍拡張費 16%  皇室財産 5%  教育基金 3% 
災害準備金 3% その他 5%