曹操VS呂布
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193年6月、曹操は、根拠地であるエン州に父、曹嵩を呼び寄せますが、その道中、彼を守るはずの護衛によって殺されてしまいます。この護衛をつけたのが徐州の陶謙。
曹操は、怒り狂い徐州攻撃を決意するのでした。
徐州の城を次々に落としていく曹操。しかし、曹操が徐州に目を向けている間に自身の根拠地、エン州が大変なことになっていました。
あの呂布がやってきたのです!しかし、彼は別に攻撃を仕掛けに来たわけではありません。
呂布は、董卓を裏切り彼を殺害後、董卓の残党の反撃にあい長安を脱出していたんですね。そして、袁術や袁紹のもとを渡り歩き、張陽という呂布と仲の良かった人物のところまで向かう途中でした。
曹操が徐州攻撃に出かけているので城に主はいません。武神呂布をもてなすのは、張バク(ちょうばく)でした。張バクは、曹操と盟友といえる間柄ですので、ここで問題はありません。
しかし、張バクと呂布が意気投合している姿をみた陳宮(ちんきゅう)が思わぬ発言をします。
陳宮とは、やはり曹操の部下で手腕を発揮していた人物。彼は、張バクに「呂布殿とあなたが手を組めば向かうところ敵なしなのでは?天下も夢ではありません。今がチャンスです、エン州を奪ってしまいなさい」
この言葉に張バクの心は動きます。徐州攻撃にて曹操は罪なき住民を含め、多くの殺戮を行っていました。これに張バク自身も恐怖を抱くようになっていたのです。
陳宮は、自身で天下をとれる器でないことはわかっており、しかしながら覇者を操りおいしいところをいただきたいと考えているところがある人物。ただし、曹操は操れるような人物ではない。しかし、呂布なら操ることは可能。このチャンスは逃すまじ!と張バクに話を持ち掛けたわけですね。
これで、覇者を操りたい陳宮。曹操に恐怖心を抱き始めた張バク。行く当てのない呂布の思惑が一致します。
エン州を奪う作戦に出た3人。しかし、曹操の腹心である荀ケ(じゅんいく)と程c(ていいく)が必死に守ります。
そして、この知らせを受けた曹操もすぐさま徐州から手を引き戻ってきました。
194年12月、敵の立てこもる濮陽を包囲した曹操。しかし、相手は、あの呂布です。激しい戦いの中、なんと曹操が敵兵に捕まってしまいます。
「終わった・・・」と観念する曹操。しかし、敵兵は「おい!曹操はどこだ!」と聞いてくる。
・・・あれ?気づいてない?
曹操は、「曹操なら黄色の馬に乗って逃げていくだろ!あいつだ!」とうまくいいのがれ、何とか逃げ延びることに成功します。
曹操さえ、命の危険にさらされるほどの激しい攻防。しかし、それを終わらせるのが、なんと「いなご」でした。
空を埋め尽くすほどの「いなご」の群れ。作物は根こそぎ荒らされ、食べるものはなくなります。正史三国志には、大変な飢饉となり、穀物は高騰し、飢えた人々は互いの肉を食べ合うほどだったと書かれています。
もちろん戦どころではありません。曹操と呂布の戦いは、このイナゴの大群により、一時休戦となりました。
さて、イナゴによって一時休戦を余儀なくされた曹操。しかし、翌年の195年春には再び兵を挙げます。
この時の曹操を強く、呂布の攻撃を跳ね返し、呂布軍の将を撃破すると兵をわけて各地で戦い、195年の10月にはエン州を取り返します。
さて、この裏切り作戦・・・。首謀者たちはどうなったのか?張バクの一族は曹操により処刑。張バク自身は自らの部下によって殺されてしまいます。
呂布、陳宮は、勝ち目がないと悟ったとたんに逃げ出し、陶謙から徐州を譲り受けていた劉備のもとに身を寄せるのでした。
曹操と呂布が争っている間に、曹操は淮、汝の地方の賊軍とも戦っています。その時に身の丈8尺(およそ184センチ)腰回りが10囲(およそ120センチ)という許チョと出会っています。
三国志演義によれば、許チョと曹操軍の強者、典韋(てんい)が戦うシーンが書かれています。二人の力は互角で決着がつかない。これを見た曹操が許チョに惚れ込み、策を用いて彼をとらえると彼の話を聞きます。その話によれば、許チョは一族と共に賊と戦ってきていたという。これを聞いて、曹操は彼を丁重にもてなし、その後、許チョは曹操のもとで活躍を見せることになるのでした。
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<劉備、徐州を得る
>劉備、徐州を呂布に奪われる
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