スペインの絶対王政
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主権国家というのをご存知でしょうか?主権国家っていうのは、言い換えれば独立国家。主権と領土が明確になっている国家のことです。まぁ、現在の我々が思い描く普通の国家ですね。
しかし、中世ヨーロッパでは、それが普通じゃなかったんです。まぁ、国家は存在したんですけど、国王や皇帝の力は強くなく、教皇のような王様よりも権威のある人もいれば、地方にも実力をもった諸侯がいて王の権力の届かない者も多くいたんです。
それが、中世末期以降、徐々に近代的な主権国家へと変わっていきます。
この主権国家を築き上げ、中世の王に比べ圧倒的な権力を誇った王政を絶対王政、または絶対主義といいます。
では、今回は、スペインの絶対王政について見ていきたいと思います。
カルロス1世
まず、スペイン王国ができた年ですが、これは1479年ですね。イスラム勢力に対する国土回復運動の末、スペイン王国はできました。
そして、スペインは16世紀に最盛期を迎えます。そこで有名なのがカルロス1世。カルロス1世は1516年にスペインの王位に就任しますが1519年には神聖ローマ帝国(ドイツ)の皇帝にもなります。この神聖ローマ帝国の皇帝にはどうやって選ばれたのか?それが、選挙なんですね。実は、フランスのフランソワ1世もこの選挙に出て神聖ローマ皇帝になろうとしたんですけど、カルロス1世に負けちゃったんです。
フランスにしてみたら、スペインとドイツをカルロスに持っていかれた・・・。これじゃ挟み撃ちじゃないか!と危機感を抱くんですね。フランスはスペインとドイツの間に位置していますから。
そして、このフランスと神聖ローマ帝国の間でイタリアをめぐる戦争が起きます。イタリア戦争です。イタリアをめぐる主権争いです。
この戦争は1559年まで続くんですが、この戦争がヨーロッパの主権国家形成の契機となっていきます。
なぜか?それまでは、地方の諸侯らも力を持っていたんですが、長引き、大規模化していく戦争では、彼ら単体の力では、軍事費や兵がぜんぜん足りないんですね。そこで、国王の登場です。中央集権化を推し進めて、官僚にしっかりと徴税や地方の行政を行わせ、常備軍を充実させる必要があったんですね。このようにして、国王は権力を振るっていったんです。
さて、このスペインですが、1538年にオスマン帝国に戦いを挑んで敗れてしまいます。プレヴェザ海戦です。スペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇の連合艦隊がオスマン帝国に敗れてしまいました。その結果、地中海の制海権はオスマン帝国にもっていかれてしまいます。
そして、1556年にはカルロス1世は、政界から引退し、弟であるフェルディナントに神聖ローマ帝国の皇帝を、息子のフェリペ2世にスペイン王位を譲ります。
フェリペ2世
カルロス1世の息子、フェリペ2世の時代にスペインは最盛期を迎えます。なんと1571年にはレパントの海戦でスペイン、ローマ教皇、ヴェネツィアが今度はオスマン帝国に勝ってしまった!父親カルロスが成し得なかったオスマン帝国撃破を成し遂げるんです。
また、彼の領土は「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれました。1580年には空位だったポルトガルの王位を継承。そのことで、ポルトガルの植民地の支配権も継承することとなり、南イタリア、ブラジルなどの中南米、フィリピンなどのアジアなどスペインは世界最大の版図を持つことになります。スペインの裏側にまで領土を持っていたので、彼の領土はどこかしら太陽の光を浴びているということで「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれたんですね。
しかし、それから10年も経たないうちにスペインの没落は始まっていくことになるのでした。
そのきっかけがイギリスとの戦争に敗北したことやネーデルラント(オランダ)の独立運動です。
>オランダの独立運動
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