天安門事件
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天安門事件(てんあんもんじけん)とは、1989年6月4日に北京の天安門広場に集まり民主化を訴えた学生や市民を中国の軍隊である人民解放軍が鎮圧した事件です。
「中国には言論の自由がない!」なんてよく言われますね。まぁ、ネットすら政府が管理し検索できない言語が存在するくらいですからね。政府に批判的な人物は逮捕されちゃうなんて話も聞きますよね。では、なんで中国政府はそこまで神経質に管理するのでしょうか?それは、天安門事件が背景にあるといわれています。
当時の中国の権力者は、ケ小平(とうしょうへい)。この人は、経済開放政策というのを行います。
まぁ、外国の企業なんかが中国で働きやすい環境をつくるんですね。経済解放区といって税金などをちょっと安くして外国の企業が自分の国で生産するより中国の経済解放区で生産したほうが儲かる仕組みを整えたのです。この経済特区の地域(天津、上海、広州など)では、目的通りに急速に経済が発展していくことになります。
現在の中国の経済発展は、この政策のおかげって言ってもいいですね。
ですが、経済の自由化が進むにつれ、中国の国民たちは海外の情報に触れることも多くなっていくわけです。
「あれ?俺たち外国の人たちと比べて言論の自由とかなくねぇ〜」
って気づいちゃう人が出てくるんですね。
そうして、一部の学生らが民主化を訴える運動を行うようになっていきました。
1981年には、胡耀邦(こようほう)という人が中国共産党主席となります。しかし、この人はケ小平の弟分のような存在です。つまり、ケ小平はあえてトップにはたたず副主席という立場から政治を動かします。
この頃の民主化や自由化に対する運動は断続的に続いていましたが胡耀邦は弾圧することせず、民主化に理解を示したんです。これに危機感を抱いたのは中国共産党の保守的な派閥。ケ小平もそれに同調し、1987年に胡耀邦は総書記(中国共産党主席はこの頃には総書記に名称変更となっている)を辞任させられてしまいます。
1989年に胡耀邦が死去。これが天安門事件の引き金となります。胡耀邦は民主化に理解を示していたため、それらを求める学生たちには人気があったんですね。彼の死を悼む人々が天安門広場に集まり、それはやがて民主化を訴える運動へと発展していきます。
もう、うっぷんが爆発なわけです。経済開放政策で物価が高騰したり、独裁的な支配を強めるケ小平に不満があったり・・・。
胡耀邦の後をついだ総書記は趙紫陽(ちょうしよう)。まぁ、この人もケ小平の弟分ですね。ですが、彼も実は民主化を訴える人々には同情的・・・。それどころか、ソ連のゴルバチョフに「いや〜。実は中国の十件は未だケ小平が握っていて彼がいないと何も決まんないんですよね〜」みたいなことを暴露しちゃう。これで趙紫陽も解任。
いよいよ、ケ小平は戒厳令を発動。1989年6月4日に兵士、戦車、装甲車が天安門広場に突入。天安門事件による死者は319人。負傷者は9000人などと発表されていますが、実際にはそれよりもはるかに多い被害者がでたものといわれています。
この天安門事件後、趙紫陽の後任となった江沢民(こうたくみん)は、民主化運動に国民が走らぬように「愛国教育」を強力に進めていくことになります。そして、現在でも天安門事件の通称、「64」なんかで中国国内から検索しても天安門事件に関する内容は出てこないようですね。
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>習近平国家主席
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