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歴史年代ゴロ合わせ暗記ロシアの歴史>血の日曜日

   

血の日曜日(ロシア)


 血の日曜日という事件は、世界史の中では複数存在しているのですが、この章はロシアの歴史なのでロシアで起きた事件のことです。

 では、ロシアで起きた血の日曜日について見てみましょう。

 事件が起きたのは1905年1月9日。血の日曜日というぐらいだから曜日は日曜日ですね。当時は日露戦争の最中。この日露戦争は、ロシアと日本が満州から朝鮮半島の利権をめぐって対立し起きた戦争なのですが、日本が有利に戦争を進めていました。

 戦争中というのは国民に負担が強いられるもの。まぁ、勝っている側の国民はそれでも我慢できるのですが、負けている方では不満が蓄積されていく訳です。

 事件の始まりは、些細なことから始まります。

 ロシア帝国の首都ペテルブルクにてプチロフ金属機械工場の労働者4人が解雇されたことが発端です。この4人は
神父ガポンがつくったガポン組合というのに入っていました。



 当時のロシアでは、労働者の組合結成は許されていなかったのですが、ガポンの尽力により講演や討論、音楽などを楽しむサークルとして活動が特別に許されていたのです。しかし、これを企業側は面白く思っていなかった。それが理由でガポン組合に入っている4人を解雇したのではないか?と労働者は推測し怒りストライキに入るのです。まぁ、ここまでは、結構よくある話ですね。企業側と労働者側の対立です。

 しかし、このストライキは、日露戦争によって大幅な時間外労働を強制されていたことなどに腹を立てていた他の企業の労働者たちにも広がりを見せます。

 ですが、発端となったプチロフ工場側では解雇撤回や時間外労働の強制などの改善に耳をかす様子は一向にありません。

 ガボン神父は、この企業側の対応と戦争で亡くなっていく兵士たちのことを思い労働者の待遇改善、日露戦争の中止、税制の改革、基本的人権の付与などを直接皇帝ニコライ2世に訴えようと呼びかけます。

 実は、当時民衆の間では皇帝(ロシアではツァーリという称号をつかう)にまだ期待を持っていました。”ツァーリは我々民衆に自由と幸福を与えてくださる”という古くからの観念があった為、それまで革命派が皇帝を悪く言っても民衆はなかなか受け付けることがなかったのです。

 しかし、この事件の後、ツァーリが本当に民衆の味方なのか?そうでないのか?を人々は知ることになります。

 運命の日、1月9日。皇帝がいるはずの冬宮までの道のりを人々が行進していきます。賛美歌を歌いながら歩く人々の数は膨れ上がり、総数は6〜7万人ともいわれています。行進自体は平和的なものであったのですが、その人数のあまりの多さに警備の兵士がついに民衆の列に発砲してしまいます。発砲は群衆の雄叫び、悲鳴を呼び、それらが再び発砲を呼ぶ。この血の日曜日の行進による死傷者は正確にはわからないものの4000人はくだらないといわれています。

 民衆は命を掛けて皇帝に助けを求め歩いたわけですが、肝心の皇帝はその時、冬宮にはおらず、離宮にてお茶を楽しんでいたといいます。これだけ、大規模な行進で彼らが何を訴えようとしていたか事前に知っていたはずなんですけどね。

 この事件により多くのロシア市民は皇帝に対して失望することとなり、この血の日曜日の反響はロシアに広まり、いたるところで労働者がストライキを起こし、農民も抗議の動きを見せ始めます。

 この動きを
第一次ロシア革命といいます。

 その後、首都のペテルブルクでは、労働者代表の自治評議会である
ソヴィエトが結成されます。この動きに皇帝ニコライ2世も十月宣言を発布。国民に対し、立法権を持つ国会の開設と基本的人権の付与を約束し、いったん革命は収まることとなります。
 
ロマノフ朝

怪僧ラスプーチンの登場