歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記近代ヨーロッパの歴史>ウィーン体制

ウィーン体制


 
ウィーン体制は、フランス革命ナポレオン戦争で混乱したヨーロッパに秩序を取り戻すことが目的として成立します。

 当時は、ナポレオンがヨーロッパのほぼ全土を席巻してしまったので国境線もグチャグチャになってしまったんですね。そして、そのナポレオンがヨーロッパの連合軍に敗北。その後のヨーロッパの国境、国家体制、国際秩序を回復せねば!ということで開催されたのがウィーン会議でした。このウィーン会議によって決められた体制がウィーン体制です。

1811年のナポレオン勢力図
出典:ウィキペディアコモンズ

 ウィーン会議には、イスラーム帝国であるオスマン帝国を除くヨーロッパの国々が参加します。場所は、まぁウィーンですね。オーストラリアのウィーンです。

 このウィーン会議を主催し、議長となったのはホスト国であるオーストリアの外相、
メッテルニヒでした。

 では、ウィーン会議の内容を簡単に見ていきます。

 ウィーン会議の始まりは1814年です。さて、グチャグチャになってしまった国境。これをどうするべきか?ってことになるわけですが「そんなのフランス革命以前の状態に戻せばいいんじゃない?」という案が出てきます。まぁ、正統な案のように思えますね。もとに戻すのが一番無難に思えますものね。ですから、この案を
正統主義といいます。

 正統主義を提唱したのはフランスの外務大臣タレーラン。えっ?ナポレオンってフランスの皇帝だったわけでしょ?なんで、敗戦国のフランスが意見をちゃっかり述べてるの?って思いますよね。ですが、フランスにしたら革命によって、国王が殺され、その後ナポレオンが皇帝となってしまった。そのナポレオンが負けると革命で殺されたルイ16世の弟、ルイ18世が国王として即位しています。つまり、フランスは革命によって被害を受けた国王家の代表として参加していたんですね。ですから、私たちフランスもみなさんと同じ被害国ですっ!ってことで、しっかり意見を述べているってわけです。

 さて、この正統主義、ヨーロッパを元に戻そうよっ!という案以外にももう一つ案が出てきます。それが
勢力均衡です。以前のフランスのように飛びぬけた力をもった国が誕生すると、またヨーロッパはグチャグチャにされ、多くの人が被害を被るので国々の力の均衡をはかりましょうという案です。

 まぁ、こうなってくると各国、思惑が入り乱れ会議は進まないわけです。「会議は踊る、されど進まず」っていう状態です。そんな状態の隙をついて、エルバ島に島流しとなっていたナポレオンがちゃっかりフランス戻り皇帝に返り咲いてしまったりしています(
ナポレオンの百日天下)。

 やばい、やばいってことで各国は慌てて妥協点を見出し、1815年6月に
ウィーン議定書を締結。ウィーン会議を終え、団結を固めるとナポレオンを再びワーテルローの戦いで粉砕しました。

 このウィーン議定書で決められた新たなヨーロッパの体制が
ウィーン体制です。では、各国の領土の変更を見ていきましょう。

 勝ち組といえるのはオーストリア、プロイセン、ロシア、イギリスですね。では、まずホスト国であったオーストリアから。

 
オーストリアはウィーン議定書によって北イタリア(ロンバルディア、南チロル、ヴェネツィア、ダルマティア地方)を手に入れます。しかし、手放した領土もあります。南ドイツとベルギー(南ネーデルラント)です。しかし、オーストリアにとって北イタリアのヴェネツィアを手に入れたのは大きいですね。オーストリアは海に面していなかったのですが、このヴェネツィア獲得によって海への出口をゲットできています。



 
プロイセンはザクセン地方の北側を獲得します。領土拡大です。また、ライン川の中流域も獲得しました。この地方はラインラントといわれ工業が発展します。



 
ロシアはポーランドの獲得です。ちょっと複雑ですがポーランドはナポレオンの時代にはワルシャワ大公国としてナポレオンの支配下にありました。そのワルシャワ大公国が形式的に独立しポーランド王国となりロシアの支配下に入ったというわけです。ロシアの皇帝がポーランドの国王を兼任しますので、ポーランドを獲得したのと同じことですね。またフィンランド、ベッサラビアの地域もロシアへの併合が決まります。

 
イギリスはちょっと変な領土の獲得のしかたをしています。セイロン島、ケープ植民地、マルタ島、ヘルゴラント島の獲得です。なんだか遠く離れた島とかアフリカの最南端とかもらって喜んでるんですね。なぜか?イギリスにしたら土地を広くしたいというよりは市場が欲しかったんです。ですからアフリカやらアジアのセイロン島やらをもらって海上連絡路の確保を狙ったんですね。



 その他、スイスが永世中立として国際的に承認されたのは、このウィーン会議です。ドイツに関しては、ドイツ連邦というのがつくられます。ドイツというのは、この時点ではバラバラで国家ではありません。35の君主国と4つの自由市からなるドイツ連邦です。35の君主国にはプロイセンやオーストリアが入っています。4つの自由市とはブレーメン、リューベック、ハンブルク、フランクフルトです。スウェーデンもノルウェーを獲得しました。

 そして、このウィーン体制を維持するために2つの軍事同盟が結成されます。一つが
神聖同盟。提唱したのはロシアの皇帝、アレクサンドル1世です。これは、キリスト教的友愛の精神にも続いて平和を訴えた同盟です。精神的な主君間での盟約ですので外交的、政治的な拘束力はありません。これにはほとんどの国が参加しますが、イギリス国王、ローマ教皇、トルコは不参加となっています。

 もう一つが
四国同盟です。イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアが結成した同盟です。もともと、ナポレオンに対抗するために作られた同盟が起源です。ですから、フランスにて再び革命が起こるのを防ぐために実際フランスに占領軍を派遣したりしています。しかし、その後、この四国同盟にはフランスが加入し五国同盟となるんです。もはや、フランスの脅威よりも反ウィーン体制を牽制した方がいいなっ、っていう判断ですね。

 このようにして確立されたウィーン体制ですが、その後、ヨーロッパのいたるところで反ウィーン体制の動きが見え始めてきます。

 ドイツでは、1815年に学生が主となり自由と統一を求める組織(
ブルシェンヒャフト)を結成します。ドイツはバラバラでしたのでドイツの統一と憲法の制定、言論の自由などを求めた運動です。1817年にはルター決起300年を記念して大集会を開くなどしましたがウィーン会議を主催したオーストリアのメッテルニヒによって学生運動は粉砕されます。

 イタリアでも革命的秘密結社
カルボナリが結成されます。イタリアも北イタリアをオーストリアに奪われていますからね。イタリアの統一を目指し1820年にはナポリ蜂起、翌年にはピエモンテ蜂起を起こしますが、これもオーストリア軍によって鎮圧されました。

 次はスペイン。スペインでは1820年に軍人リエゴらが中心となりナポレオン支配下の時代に制定された1812年憲法という自由主義的憲法を復活させることを目的に復活したブルボン王家に反乱を起こします。この軍の反乱は、波紋を呼び各地で火の手が上がるようになると国王フェルナンド7世は憲法の復活を約束。1822年には国王は廃位され、革命政府が樹立します。しかし、これを野放しにしておけば、ウィーン体制の崩壊を招くとして神聖同盟に基づきフランス軍が介入。国王を復活させてリエゴを処刑します。

 勝ち組となっていたロシアでも民主化運動は勃発します。ナポレオン戦争で従軍した将校らがヨーロッパの自由主義を肌で感じ、ロシアのツァーリズムといわれる皇帝専制体制に疑問を抱いたんです。そして、憲法制定、農奴制の廃止などを訴え立ち上がります(
デカブリストの乱)。しかし、即位したばかりのニコライ1世によってつぶされました。

 このようにヨーロッパで起きた反ウィーン体制の運動は鎮圧されていくわけですが、ヨーロッパを離れたラテンアメリカによってウィーン体制は大きな打撃を受けることになります。

 当時のラテンアメリカはほとんどがスペインやフランス、ポルトガルといった国々の植民地となっていました。そこで起きる独立戦争は本国スペイン、フランスに動揺を生むこととなります。

 口火を切ったのはフランス領であったハイチ。ここでは、フランス革命の影響を受け黒人指導者のトゥサン・ルヴェルチュールらが反乱を起こし、ナポレオン時代にはすでに独立を果たしています。

 1810年代には植民地生まれの白人であるシモン・ボリバルが南米北部の独立を推進します。彼は祖国ベネズエラを独立させるためスペインと戦争を展開。しかし、さすがにスペインの復讐は怖いので団結しようということで、コロンビア、ベネズエラ、パナマを含んだ国々により構成された大コロンビア共和国を1819年に独立させます。1822年にはエクアドルも大コロンビアに参入、1825年のボリビア独立にも貢献します。

 ラテンアメリカの南部でもアルゼンチン出身の軍人サン・マルティンがアルゼンチン、チリ、ペルーの独立運動に邁進しました。1816年にアルゼンチンはラプラタ連邦としてスペインから独立。チリも1818年にスペインから独立。ペルーも1821年に独立を宣言し1824年にスペイン軍を撃退して独立を勝ち取ります。

 メキシコも1821年に独立します。

 一風変わっているのがブラジルの独立。ここでは、ほとんど流血はなく平和的な独立となっています。なぜか?ブラジルはポルトガルの植民地となっていましたがナポレオン時代に本国ポルトガルがナポレオン軍に占領され、ポルトガル王室の人たちはブラジルに逃げてきていたんです。そして、この地をきにいってしまうんですね。ナポレオンが没落すると国王ジョアン6世の息子ドン・ペドロの残し王室の人たちは帰っていくわけですが、そのドン・ペドロが父からの帰国命令を無視して1822年にブラジル皇帝ペドロ1世として即位して独立するんです。

 さて、次々に独立していくラテンアメリカの国々。しかし、なぜそんなにうまくいったのか?それにはイギリスとアメリカ合衆国の力が原因として挙げられます。

 イギリスとしてはラテンアメリカをイギリス産業の市場にしたいという思惑がありました。独立国となっていまえば、スペインなどの本国に気兼ねすることなく自由な貿易が可能ですからね。当時のイギリスの外相カニングの名をとり、この当時のイギリスの外交を
カニング外交といいます。

 一方、アメリカでは、第五代大統領モンローが1823年に
モンロー教書で主張した南北アメリカとヨーロッパの相互不干渉の原則というのを訴えていました。このモンロー教書によりラテンアメリカはヨーロッパ諸国の干渉を避けることができたわけです。