第十四則 南泉斬猫

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東西の堂の僧達が一匹の猫について争っているのを和尚が見て「何か言えれば助けてやろう。 言えなければ斬る」と言ったが、誰も何も言えず、和尚は猫を斬った。 夜、帰ってきた一番弟子にこの話をするとその弟子は草鞋を脱いで頭に載せて出ていった。 和尚は「お前がいたら猫は助かったのだが」と言った。

無門和尚の解説:さあ言ってみよ。一番弟子が草鞋を頭に載せたのはどういう意味か。 これに対して適切な言葉があるならこの和尚のやったことは無駄ではなかったことがわかるであろう。それが出来ないのなら危ういぞ。


僧達が何を争っていたのかは分かりません。まさか猫の所有権や調理法ではないでしょう。 猫とは何か、猫に仏性があるか否か、など猫をテーマに真剣に議論をしていたのでしょう。 そこへ和尚が現れ、この猫は何だ、言えなければ斬る、と迫りました。

それまで自由に言い争っていた僧達は、ここで突然教えるものとしての和尚に対する教えられるものの立場に変化しました。 僧達はもはや自由な発言ができなくなり、和尚を満足させる一言は何か、と考え始めてしまいました。 さあ何か言ってみよ、と師に言われた場合、すっと自分の見解を述べるのは難しいでしょう。

実社会においても、今日は自由に君たちの意見を聞きたい、 上司がいるからといって遠慮せず普段思っていることを率直に聞かせてほしい、 と言われて本当に自分の思う侭を吐き出すのはよほどの若者か愚か者でしょう。 そこにはその場にふさわしい表現方法、相手の立場と性格、何が求められているのかを判断し、 発現する結果が自分の望む方向になるように主張し発表せねばなりません。それが社会におけるコミュニケーションでしょう。



ここでは僧達は和尚を前にして一言も発せられませんでした。それは僧達の思考の未熟さを現すものだけではなく、 そこに指導者と被指導者、上位のものと下位のものという分別が介在してきたからでしょう。 和尚はそんな態度では本質を理解することは出来ない、と議論の対象であった猫そのものを抹殺してしまいました。 僧たちは上下関係にこだわり、間違った答をすることを恐れ、本質を追うことを忘れていました。

後でその話を聞いた一番弟子は草鞋を脱いで頭に載せて無言で立ち去りました。 この一番弟子のメッセージは以下のような内容でしょう。

「僧たちはそんなに萎縮してしまってどうしようもない奴等だ。自分の草鞋を頭に頂くように、 各自がそれぞれ自分の足元にある、自分がその上に立っているものを自信をもって持ち出してくるべきなのだ」

無門和尚は詠って言います。「もし一番弟子がその場にいたら、逆に和尚に答えを迫ったであろう。 刀を奪われてしまえば和尚が命乞いをしただろう」と。この和尚は大きなことを言っているが、 果して自分は頭上に載せるだけのものを持っていたのか、と無門和尚は厳しいのです。

コミュニケーションは相手を考慮したものでなければなりません。しかし禅における本質の追求は自分自身のものです。 その探求の過程では上下関係や師弟関係を超えた真摯な意見交換が必要でしょう。 そしてそれを許容し指導するのは指導者たる和尚のつとめでしょう。

しかし無門関では、第六則の世尊拈花にて、わかるものだけに分かる、と突き放しています。正解かどうか、間違ったらどうするか、などという分別を捨て、自分のものをしっかりと頭上に保持しそれを追求せよ、というのが無門和尚のメッセージだと思います。



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犬足:企業の管理者の役割の一つは、いかに「自由な意見」を引き出し、成果に結びつけるかでしょう。 しかし、「言っていいことと悪いことがあるぞ」というのもよく聞く台詞です。 管理される側にとって難しいのはその許容度の判断で、受け入れてくれる幅が広い上司であった場合に「 上司に恵まれた」ということになるのでしょう。

<教育の場でも同じことでしょう。猫をぶらさげて「何か言え」と迫り、弟子に何も言えなくさせ、猫を斬らねばならなくなった和尚は、 指導者としての素質に欠ける点があった、と言ってもいいでしょう。無門和尚が厳しく指摘しているのはこの点かもしれません。