第四十五則 他是阿誰

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和尚が言った。「釈迦も弥勒も彼の奴隷である。さて言ってみよ。彼とは誰か」

無門和尚の解説:この誰かということがはっきり見極められるなら、十字路で親に会ったようなもので、他人に聞いてみる必要は全くないはずだ。


釈迦でさえ、それ自身で完結しておらず、釈迦自身が他のものの一部だ。では釈迦も弥勒も、全てを支配する大きなものとは何でしょう。

これは第一則で提起した巨大なもの、 天地とも仏とも呼ばれ、無とも呼ばれるこの世界の本質でしょう。ある者は指を立て、ある者は円を描き、 または一を書いてそれを表そうとしました。もしその世界を統一する意志というものがあるならば、それが神であり仏なのでしょう。

この世界に人間が存在しているのは神や仏の意志、あるいは何らかの恣意的な意図によるものでしょうか。 この世界を世界として成立させているものは何なのかを改めて考えてみましょう。


現在のような複雑な生命系が存在するには、自然界の条件や定数はごく限られた範囲に全てが揃っていなければならないといいます。 それらをもしランダムに選んでいたのではまず起こり得ない極端に希な確率の積み重ねが必要であり、現実にありうるはずがないという人があります。

この宇宙の誕生のはじまりとなっている量子的揺らぎの程度は何故丁度星ぼしが出来るに適した量だったのでしょうか。  10ないし11次元あるという宇宙の空間の可能性の中で何故この宇宙は丁度惑星系の存在が可能な四次元だったのか、 他の次元は何故都合よく紐のように畳みこまれているのでしょうか。

ある著名な昆虫学者は昆虫の繁殖と生存の仕組みのあまりにも巧妙なこと、 もしその仕組みの積み重ねが一部でも欠けていたらその種は子孫を残すことができなかった、 それは適者生存という突然変異頼みの試行錯誤では実現不可能であり、 進化の過程では一つとして生き残ってこられなかったはずのものを見て、そこに神の意志がなければならないとし、進化論を否定しました。




自然に発生することは有り得ないと思われる世界、人間という精神の完成の事実を、 全てを恣意的に作成した神の存在に結び付けるのとは別の考え方があります。 人間が存在出来るのは生存の条件が揃い、精神の発達が可能な生命体システムが発生した宇宙の条件があったのが前提ですが、 もしその条件がなかったなら人間は存在せず、その疑問も存在しません。

いかに確率が小さくとも、生存が可能な組み合わせが発生した場合にのみ人間が発生しその疑問を持ち出します。 従ってそれが確率的に小さいということは問題になりません。このような考え方を、人間原理といいます。 我思う故に我有り、ではなく、我有る故に我思う、とでも言いましょうか。

釈迦も弥勒も、全てをカバーする大いなるもの、私はそれは個人個人の意識であると思います。 目の前の本のページの手触りから、愛、家庭、芸術、経済、政治、そして物質の根元である素粒子から宇宙の果てまで、 人間の心は全てを包含することが出来ます。著名な劇作家は、私はくるみの殻の中に閉じ込められた小さな存在にすぎないかもしれないが、 私は自分自身を無限に広がった宇宙の王と考えることも出来るのだ、と言っています。


人間の精神の働き、無門和尚の提示する大いなる無までをカバーする無限の広がりを持つ自由な心の働きを得られたならば、 それが、釈迦や弥勒を超える大いなるものなのだと思います。そこまで個人の意識が達すれば、禅の和尚も、達磨も釈迦も、人間の精神の奴隷でしかなく、個人の精神の中に飲み込まれてしまうでしょう。

本来がキリストもアラーも八百万の神々も、全ては人間の心の産物でありその一部でしょう。
それを信ずるもよく、それに頼るもよいでしょう。そこに宗教が生まれます。

しかし、禅は心の拠り所を他に頼ることを許さず、個人の精神に投げ返してきます。与えられたものに安住することを許しません。 釈迦や弥勒でさえ、そこが終点ではないのです。人間の心とはもっともっと大きなものなのです。さらに次の則で無門和尚は我々を叱咤します。

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犬足:人間はどうやって産まれたのか。宇宙の始まり、空間と時間と物質の始まりが何であったのかは科学ではまだ完全に説明されていません。 それを神と呼ぶことには問題はないでしょう。しかし全能の神は万物創生を行なう前、また行った後、何をしていたのでしょう?

著名な哲学者は、神は天地創造の前には何もしてなかった、と言いました。 著名な物理学者は、神は天地を創造したかもしれないが、その後は何も手をださなかった、と言いました。 神はこの世の創生だけをして、すぐ隠居してしまった、と言った著名でない人がありました。

宇宙の始まりを研究することは、ほとんど宗教か哲学の領域に入っているような感じです。 乱暴に言えば、万物創生を理屈抜きで信じるのが宗教、理屈を通して信じるのが哲学、事実(らしきもの?)を通して信じるのが科学、でしょうか。