第四十六則 竿頭進歩

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和尚が言った。「百尺の竿の先に立って、どうやって一歩を進めればよいか」 またある古い達人が言った。「百尺の竿の先に座っている人はまだ本当に悟ってはいない。その先にさらに一歩を進めて全世界に自分の全身を現すべきだ」

無門和尚の解説:一歩進め身を翻すことができれば、自分を尊と称するのを嫌う場所などなくなる。とは言っても、言ってみよ、百尺の竿の先からどのように一歩を進めるのか。

百尺竿頭一歩を進めよ、とは一般的には、もう不可能と思っても更に努力を続けよ、という意味に用いられます。

私は、ここでの百尺竿頭は可能だと思うことの限界という意味ではなく、頂上に到達した、並ぶもののない広々とした世界の中に突出した自分を確立した、という立場と考えます。まわりには空間しかない。竿の先にしっかりと座り、全てから自由な自分を得た、と思うことが百尺竿頭に座る、ということでしょう。

しかし悟りに終わりはありません。たとえ百尺の竿の先までたどり着いたと思っても、そこに安住することは許されません。安住したと思った時点でその心はまた不安定な、外乱に弱い不安心に襲われるでしょう。登り続ける竿には先端はないのです。先へ、先へと登り続けること自体が終わりのない追求という安心を与えます。まだまだ登りつづけることが出来るということが限りない人間の欲望に救いを与えてくれます。


いつまでも満たされない心と、いつまでも求め続け受け入れ続ける心とは根本が異なります。ただ飢え、渇いているだけでは灘の銘酒を与えられようと味わうことは出来ないでしょう。常に満たされつつ、常に味わいつつ、どこまでも受け入れ続ける自分を大きく広げてゆくことが、大いなる安心への道でしょう。

初めの方、第九則で、大通智勝仏は何故仏法を極めないのか、との問いに、それは彼が仏法を極めないからだ、と答えていました。指一本を立てる和尚は生涯その指一本を使い切れなかったと言っていました。極める、ということはそれ自体が極めるということを否定しています。

無に終わりがないように、悟りにも終わりがないのです。悟り続ける、安心を確立し続けるには、常に求め続け、常に極め続けなければなりません。安住の地がないことが安住の姿なのです。それは竿頭のような狭い頂点ではなく、どこまでも広がってゆく大いなる自分です。

第九則で終わりのない修行を示唆し、第十則では求め続けるだけではだめなのだ、自らが求めているものを認識してゆかなければならないと解き、コーダに入って、改めてこれまで学んだことの全ての上に立って、更に広い世界へ向けて踏み出さねばならない、大いなる無の世界を理解せねばならないという、無門和尚の強いメッセージだと思います。




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