宗教戦争のパラドックス

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「隣人を愛せ」「殺すなかれ」などなど、宗教には素晴らしい教えがあります。 では何故、それらの宗教の間で争いが起こるのでしょうか?  同じ宗教間でさえ後継者争いから殺し合いにまで発展することがあります。

僕はこのパラドックスは嫌いです。いかに異教徒に対するものとはいえ、 憎みや殺し合いを産む宗教は未完成な宗教ではないですか?

穿った見方をすれば、心の安寧を求める現在の宗教にとっては、異教徒や争いの相手は不可欠な要因なのかもしれません。 新興宗教の中には布教を第一目的とするものがあります。未加入の人たちを勧誘し改宗させることで、自分の安心が得られるというのです。

しかし、もし全員が同じ宗教になってしまったら、布教に生きがいを求めてこられた方々は、後はどこに安心を求めるのでしょうか?  子供を教育する、と答えた方がありましたが。


禅寺の禅の修行には厳しいものがありますが、禅を信仰する方々が全て同じように厳しい修業をすることが究極の目的ではないでしょう。 本当の修行は禅の指導者を目指す一部の方々だけのものなのかもしれません。

禅寺では「一日なさざれば一日食わず」であり、日常の作務は必ず行なわれてはいますが、 それだけで完全自給自足にはなっていません。昔から托鉢など社会による支援交流は必要とされ、それなくしては禅寺の財政は破綻してしまうでしょう。

全身全霊をもって座禅に打ち込め、と勧める禅の教えは、 皆が本当に座禅に熱中してしまったら社会が成り立たないというパラドックスを含んでいます。 ひたすら座禅に打ち込め、という教えには、座禅に打ち込まない人たちの存在が不可欠なのです。

僕の夢見る「科学と哲学と宗教の融合した新しい宗教」は、異教徒も宗教戦争も必要としないものであることを望んでいます。

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