砂山のパラドックス

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砂に砂粒を一つ加えても、砂山にはならない。
砂粒一つでは砂山ではない。
従って、いくら砂粒を加えていっても砂山は出来ない。しかし現に砂山は存在する。

これは「砂山」という定義をあいまいにしているために生ずるパラドックスです。

「特定の神社に参拝するかどうかは個人の心の問題であり、他人にとやかく言われるのは心外である」と言った方がありました。これはその神社に祭られているどの神に対して参拝しているか、という点をあいまいにしていると思います。

神社に参拝する際、祭られた神を区別し部分的に参拝するという考えは、一神教の国には理解されないでしょう。これはパラドックスではありませんが、政治の舞台では定義をあいまいにしたままで議論が進められることが多いような気がします。自衛隊が派遣される地域が非戦闘地域だと言った方がありました。昔、自衛隊は軍隊ではない、という定義もありましたね。

パラドックスはあいまいな定義を基にしている場合が多いので、パラドックスを楽しむ場合は定義の確認は避けて通れない関門です。無意識に共通の理解があると思っている定義にあいまいさがあることに気が付くようになることは、パラドックス議論のメリットかもしれません。

しかし言葉の定義やあいまいさだけによるパラドックスは空虚な感じがします。やはり本物のパラドックスは科学の分野で出てくるものでしょう。
次は本格的なもの、地球外生命体に関する「フェルミのパラドックス」です。

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