残された家族

私の気持ちや家族の様子を書いています
2004-01-02 Friday
自信
賢信が亡くなってから 私は子育てという物に全く自信がなくなってしまいました。
 それまでは自然治癒力を高めるのをどちらかと言えば実行している方で 風邪程度なら勝手におさまる。風邪に効く薬はないし、ヘタに病院へ行って違う病気を貰うのもイヤだ。高熱も1〜3日あればおさまる。飲めていて尿が出ていれば 大丈夫。
エアコンもほとんど入れず、食べ物もなるべく気をつけ、病院も風邪くらいでは抗生物質を出さない病院を選んでいました。
 でも、すべてに自信をなくしてしまいました。
賢信をあの日病院へ連れていっていたら・・・幼稚園に私が行かなければ・・・断乳していなければ・・
今まで 私は何をしていたんでしょうか?
2004-01-03 Saturday
ビデオ
ビデオを見ていると賢信が私の手の中で笑っています。
確かにこの手の中にいたはずなのに何故いないのか理解が出来ません。
 夏の終わりに扇風機と家庭用のプールを片づけました。
 扇風機の前で「あっー」と声を出して遊んでいた。
 プールを膨らますときに何も言わないのにプールの中にパッと入り込み、ニタァと得意げな笑みを見せていた。「明日はいろうね」と言ったけどその日から寒くなり、入らずじまいだった。(その年は冷夏だった)
 これを出したときには確かにいたはずなのに、今どうしていないのか、夏の始めにはいたのに何故夏の終わりにはいなくなっているのか?おかしい。おかしい。おかしい。こんなことはおかしい。理解が出来ない。
2004-01-04 Sunday
まさか
4年ほど前に私は小さないのちの坂下さんと出会いました。
きっかけはニュースでした。坂下さんが 小さないのちという会を作り、講演を開いた。
そういう内容だったと思います。
その講演に行きたくて、ネットで調べ、連絡をしたのがきっかけでした。
 賢信が入院する日、賢信は朝から38.4度の熱があったのですです。しかし、昼から幼稚園へいかなければいけない。それまでにやることは沢山ある。我が家の子は39度以上熱が出るのが当たり前。賢信も2度39度以上の熱を出したことがある。38度なら大したことはない。3日熱が出て、大抵下がることが多い。
目も開いている、ご飯も食べる 大丈夫だ。
自分の都合のいい解釈ばかりにとられ、賢信を見ていなかった。4人目という慣れ。  男の子が熱に弱いと言うことも考慮していなかった。
 坂下さんにぼーっとしていたら要注意と言うことも聞いていたのに・・・どこか他人事だった。まさか自分の子が・・・と思っていた。
2004-01-05 Monday
馬鹿なこと
スーパーへ行くと必ず後悔することがあります。我が家は長女が産まれてから7年間 誰かしらオムツをしていました。オムツの値段を見る癖が付いてしまっているのです。そのくせはなかなかとれません。
 オムツコーナーの前は通れなくなってしまいました。
ベビーカーを見るとやめればいいのに ついつい中を覗いています。
女の子だったらホッとします。
男の子だと 顔つきや体つき、仕草や表情などをチェックして賢信と比べてしまいます。賢信が生きていたら、賢信はもっと色黒だった・・・
亡くなってしばらくは1才くらいの子を抱っこしている母親を見ると幸せそうに見えて腹が立つことがありました。
人と比べて自分が不幸に見える。そんな自分がとても嫌でした。今考えると自分で自分を不幸にしていたのかもしれません。
人と比べるほど不幸なことはないのです。
人より可哀相とか、人より不幸とか、人と比べて自分は幸せとか、人より物を持っているとか、人より正しいとか、そんなときが一番不幸なのかもしれません。
でも、私がそういう状態になったことが無駄だとは思いません。
残された家族がやる行動には意味がないことはない、その人はその時それしかなかったんだと思っています。それによっていい方に転ぶが悪い方に転ぶかはわかりません。しかし、その時の行動は次の一歩に進む準備段階だったと思っています。
ある人に「子供が死ぬとどうして苦しいかわかりますか?」ときかれました。
その答えを聞いて涙が出ました。
親が亡くなるのは自分の過去がなくなる
夫が亡くなるのは自分の現在がなくなる
子供が亡くなるのは自分の未来がなくなる
そう聞いて 私はものすごく納得しました。
そうかだから苦しいんだ。
過去や現在はその内過去になる でも未来はいつまでたっても進行形。
毎年 賢信の誕生日が来るたびに年を数えていくだろう。
 私にとって賢信は体の一部でした。主人がいて子供4人がいて私がいて家族だったんです。上のように書きましたが、子供でなくともその人にとって 大事な「家族」ならば過去にはならないでしょうね。
 病気になって死にたいと思ったこともあるけれど でもいのちをあきらめることは、生きたくて頑張った賢信に失礼な事をしたことになる。
何十年と先に生き抜いた私で賢信と会わなくてはいけないと思う。
ちょっと長いけど待っていてね。
今賢信のことを除けば 良い夫と子供に恵まれ幸せだと思う。だけど、子供4人でうつっている写真を見ると「幸せだった」と思う自分がいる・・・ 
2004-01-06 Tuesday
賢信の残したもの
色んな人が声をかけてくれた。自分の子が病気の時自分はこんなに一生懸命やったんだという人もいたし、神様はあなたが強い人だから試練を与えたんだという人もいた。その人が私を慰めようとしてくれるのはわかっているだけど、どうしても納得ができなくて死ぬ理由を探しました。
私が病院へ連れていかなかったから?断乳したから?私が何か悪いことをしたから?1年で死ぬために産まれてきたのか?なぜ、賢信が死ななければいけないのか、どうしたら残る子供を守れるのか。答えが出なくて・・・
そして今は 何が出来るかを考えることにしました。とりあえずはホームページから・・・
賢信の残して言った物は大きすぎます。
大きすぎて時に立てなくる時があります。
賢信の残していった宿題をゆっくり解いて行くしかありません。
忘れることは出来ません。常に頭にあります。
 賢信が残していった物は沢山ありますが、私がどう生きていくかだと思います。
 じっくり ゆっくり進んで行くね。賢信。みててね。
2004-01-07 Wednesday
賢信の25日間
賢信の顔は思い出せないけど、賢信の入院中のことは詳細に覚えています。
呼吸器をつけた賢信を見たときはとにかくショックで他の日に比べ記憶もあやふやです。
しかし、1日一緒にいることで少しずつ冷静に慣れました。
一日見ていると 全く動かない賢信も微妙に違います。
今は調子良さそうだ 大丈夫だろう。ちょっとヤバイかな。などと根拠はありませんがなんとなくわかるのです。
 呼吸器繋がれてからはほとんど一緒に入れました。
最初 繋がれている管や吸飲を見るのはつらい物でした。
でも 途中からは慣れもありますが、吸飲すると酸素の値が100%になったりするのを見て「そうか吸飲した方が楽なんだ」と思うようになりました。だから可哀相と思わないことにしたんです。
賢信はこんなにも頑張っている 生きようと闘っているそんな賢信に可哀相と思うのは失礼だ。そんな自分の感情に浸っている場合じゃない。一緒に闘おう。生きるために。その一心でした。
今となっては賢信はその日の内になくなってもおかしくなかったのかもしれません。
 何かに吸い寄せられるようにこの日まで来ました。
 坂下さんとの出会いも不思議な物でした。
坂下さんに夜間見て貰える病院を探しておくときき、引っ越ししてすぐにあの病院を公園にいる人から聞きました。
救急車を呼んでも適切な病院へ連れていってくれるとは限らないと聞き、あの病院へ連れていきました。
その病院が たまたま救急対応できて、しかもその日の当直が一番ベテランの先生だったこと(しかもその日が最後の当直) 
 血液検査の値はそう悪くないのに入院させて貰ったこと。家に帰っていたら間にあわなかったでしょう。
 最後にとれたAラインは賢信からのメッセージだったのかもしれません。
私がいつも握っていた左手がもとに戻った事も・・・
 そして、賢信の亡くなった時間はいつも私達が起きていた時間に1分とも狂っていないこと。
 葬儀と斎場で骨になった日が 賢信の出産予定日だでした。
 最後の25日間は賢信が私達のために生きていてくれたんだと思います。私達の覚悟が決まるのを待っていてくれたんだと思います。何にも左右されない 賢信がつかみ取った25日間です。
2004-01-08 Thursday
カルテ
私はカルテを貰おうと思いました。
カルテを貰ってどうするの?そう思うかもしれませんね。
でも、私にとって、カルテは賢信の遺品と同じです。
カルテを貰うのは親にとって勇気のいる物です。
何度もダイヤルを回しては切っていました。
電話をした後は力が抜けました。
カルテを申請するのに戸籍謄本を必要としました。
区役所へ行って戸籍を手にしたとき、賢信の名前の上に大きく × がしてあるのを見て 区役所で思わず泣いてしまいました。
四十九日の次の日に病院へ行きました。
怖くて病棟に入れない私は待合室にいましたが、看護士さんたちがわざわざ会いに来てくれました。
 悪い記憶は出てきませんでした。みんな一生懸命やってくれてありがとう。その気持ちでした。
こんなに早くカルテを貰えたのも あまり病院に悪い記憶(賢信のことを除く)がないからかもしれません。
 申請をするときにお話をした婦長さんと事務局の方の対応にも救われました。
「カルテが欲しいという気持ちわかりますよ」そういって頂けました。
その言葉を聞いて本当にホッとしました。
カルテでなく全ての資料も頂けました。
総数300枚以上ありました。CTとレントゲンお写真も貰えました。賢信の生きた、頑張った証拠です。
「おかえり」
カルテは最初の頃 何度も薬を訂正された後があって、いかに難しく、悩まれて、緊迫していたかが伝わる物でした。
それ以外にも私達の様子がかいてあり、こんな事にまで気を使っていたんだと思いました。 看護士さんが細かな事まで書いてありビックリしました。
病状や薬は本当に詳細に聞いていたと言うことがわかりました。カルテを見てもびっくりするようなことはありませんでした。「ああ これはこういう薬だったわ」疑問な点も良くぶつけていたと思います。
 夜中 当直の先生に主人が「おしっこが出ないのはバルーン(尿をとる管)がつまっているんじゃないか」と詰め寄ったことがありました。詰まっているんじゃないでなくなった。そう思いたくない私達。
その日の当直の先生は主治医の先生ではないのですが 夜中にも関わらず すぐにチェックしてくれました。その時ほんの少し(意味がないほど少し)尿が出ました。しかし私達は嬉しかったです。そんなことに助けられました。
そしてカルテを貰って数日後先生と話をしました。聞くことは本当に数個しかなかったのです。でも、婦長さんと先生と色々話して思い出して、話していました。
忙しいでしょうに時間をあけてもらって、話をした後、私は病院のことを思い出さないと思い出さなくなりました。
それまでは 病院へ続く道の近くに来ただけで 家から病院へ行くときから最後まで思い出したくなくても無理矢理 勝手に頭に入ってきました。今自分がその場にいるときのように思い出しました。しかし、それからは道の近くに来ても 無理矢理思い出すことは減りました。思い出しても 自分がその場にいるような事はなくなりました。
2004-01-09 Friday
私の子どもの賢信
時として私は立ち上がれなくなる時があります。
自分一人だけ取り残されたような気持ちになるときがあります。
苦しくて苦しくてどうしようもないとき家族に助けを求めることにしました。
「助けて」
助けてって言葉を口に出すのは難しい物です。
前は子供に心配させたくないと気を張っていました。
そしてその気持ちが 一人になりたいという物に変わってきたときもありました。
 だからあえて私は口に出すことにしました。「苦しいよう会いたいよ」と
主人も子供も 黙って待ってくれます。怒る人も何かを言う人もいません。
ただ ただ黙って 背中をトントンしてくれます。
母親はそのことの思い出が一番長いと思います。
お腹にいたときから思い出があります。家の中の物、どれ一つとっても思い出があります。思い出すことやいなくなったという実感が 誰よりも頻繁に訪れると思います。
 でも、気持ちは同じなのです。家族誰も気持ちが同じ。苦しい深さも同じだと思います。
だから家族で乗り越えようと思ったんです。一人でなく、家族で。
この判断が良いのかどうかわかりませんが、私が正直な心を言うことで 子供達もぽつぽつと話してくれるようになりました。
何よりも 賢信の話は禁句というムードは流れずにすんでいます。
子供達にとっては斎場で煙になったところが一番ショックなようで、煙や湯気を見ただけで「賢君死んだよな」と何度も確認してきます。
先日も学校帰りに煙を見た長女が泣きながら帰ってきました。
でも、泣けたり、話せたり気持ちが出せるのはいいことじゃないかと思ったのです。
 私がなるべく泣かないように 心配かけないように時を使っていたときは子供達もあまり賢信のことを話しませんでした。子供なりに気を使っていたのか・・・
 しかし、気持ちを言うようになってからは長女もやっと小学校の友達に弟の事を言えたようでした。それまでは誰にも言ってなかったそうです。
 私は賢信のことを話したいと思っています。しかし、知り合いに話すとその場の雰囲気が変わってしまうのが怖いのです。
どう対応したらいいか、どう返事をしたらいいか そういう思いが伝わります。
 それは仕方のないことだとわかります。私が逆の立場ならそうでしょう。
 悲しいことは黙る 詞については語らない。文化柄もあると思います。
だからついつい 賢信のことを話してはいけないような気になるのです。
そして 賢信のことを思い出すのさえ駄目なようになってきます。
 ある日 病院の待合室でたまたまあった人と 男の子ってこうよねと話すのがとても楽しかったことがありました。知らない人となら「私の子供の賢信」として話が出来るんです。
2004-01-10 Saturday
記憶
私は賢信の顔が思い出せません。
思い出すのは呼吸器の顔ばかり。入院中からそうでした。
 ビデオや写真を見ても、こんな顔だったかな?と思います。
あまりにも思い出せないので、賢信って存在してたんやろうか?と思うほどです。
 食べることも笑うこともできます。
そんな自分が時々嫌になります
なんで食べれるン?なんで笑えるン?
凄く悩みました。自分が嫌にもなりました。
ある時思い出せないことを主人におそるおそる話してみました。すると、「おまえな次女の小さい頃の事思い出せるか?新しい記憶があれば古い記憶は忘れるもんや。賢信の場合は病院の記憶が強烈すぎて古い記憶が飛んでしまったんや。それは仕方がない。今はせめてビデオを見てビデオの中の賢信を忘れんようにしたらいい」そういわれました。私は怒られると思っていたので、思い出せないことに理解を示してくれた主人がうれしかったです。
夢を見ました。なあんや賢信がおるやんって言っている夢。だけどやっぱり賢信は出てきません。
入院中も夢を見ました。
1回目は目は閉じているけど中で眼球が動いている夢。
2回目は手を握りながら眠っていると 手がぴくぴくと動く夢。ビックリして目覚めると それは看護士さんが血圧を測っているところでした。
3回目はCTを取ろうとしたらいきなり目を開ける夢。
3回見たから本当になると思っていた・・・
2004-01-11 Sunday
子どもたち
子供達は全員 自分から「賢信いただきま〜す」「賢信ごちそうさま〜」「賢信いってきま〜す」などと挨拶をしています。
 長女は一番可愛がっていたので ショックも相当のようです。
 長女はいつも賢信を抱っこしていました。本当に可愛がっていました。
どんなに可愛い子を見ても「賢信が一番可愛い」と親バカならぬ姉バカを披露していました。賢信以外の赤ちゃんを見ても、賢信が一番可愛いと良いながらも「賢信の次にかわいい〜」と言って触っていたのですが、賢信が亡くなってからは赤ちゃんを避けるようになりました。
 時折、遺影の前で本を読んであげたりしています。そして、私に手紙をくれます。
先日はママ泣かないでね。賢信のこと思い出すと泣いちゃうからあんまり思い出したら駄目だよ。でも賢信のこと忘れたら駄目だよ。と手紙をくれました。
私も天国に行きたい賢信に会いたいとも書いてありました。
彼女も一生懸命。
 
次女はよくお線香をあげています。この子は比較的あまり賢信のことを言わないのですが、この間主人とお風呂は言っているときに 3女が主人に頭を洗われてる姿を見て賢信を思い出したと泣いていました。
主人に頭を洗われると 賢信は毎回 大泣きしていました。
3女は3才ながらかなり死がわかっています。前に「暑すぎて死ぬ〜」と言っていたら、「ママ死んだらつくられへん。でもパンやったら作れるけど」と言っていました。死んだら戻ってこないと言うことはわかっているようです。
先日他にお子さんを亡くされた方の家へ行ったときも遺影の前に沢山 玩具がおいてあったのですが絶対に触りませんでした。線香だけはあげていましたが・・・
運動会やら行事があると 誰も何も言わないのに 位牌を鞄の中に入れさっさと持っていくのも3女です。姉妹の仲で一番記憶力が良いというのもありますが・・・
賢信を亡くした後 長女と次女を学校へ送り出すと いつもは賢信がまとわりついて何もできなかったのが 洗濯、掃除とすいすい進んでしまい、時間が余ります。そんな時よく泣いていました。
3女は赤ちゃん返りをしだし、おもらしするようになりました。
ある時3女が「どうして○○(長女)達がいなくなるといつも泣くの?」ときかれました
「○○がいないから泣くんじゃないよ。賢信のことが悲しくて悲しくてしょうがないねん。みんながいて良かった そうじゃないと悲しすぎて死んでた」というと止まりましたが、子供なりに私を励まそうとか あまり言わないように気をつけようと下記を使っていたようです。それから私は話すようにしたのです。
 子供なりにも理由を探したようです。「○○したから死んだの?」「○○食べたから死んだの?」と言う質問もされました。
「神様はどうして助けてくれなかったの?」という質問もされます。
私は宗教はやってはいませんが「困ったことがあったら心の中の神様に聞いてみ」と教えていました。心の中の神様とは自分自身というつもりでおしえていたのです。宮参りや七五三等もしていましたし、お守りを鞄につけていたりもしました。
何を信じればいいのかわからなくなったときもありますし、恨んだときもありました。
でも 前にも書いた通り 賢信がつかみとった25日間があります。何者にも左右されない25日間。命は誰も決めれる物じゃない。
子供達には「あなた達は何人姉妹?と聞かれても3人と答えても4人と答えてもどちらも正解だからどちらでもいいんやで」と言っています。
実際私も良く、「3人姉妹やねえ。」とか「男の子産まれるまで産むの?」と聞かれます。私自身悩むので子供に伝えておきました。
子供達は大泣きしている人を見たり 湯気や煙を見ると葬儀のことを思い出すようです。
亡くなるとき、葬儀、斎場全て一緒にいました。骨も拾いました。ショックも大きかったと思います。
でも、子供にとってむごいからと 何の説明もないまま過ぎると言うことの方が子供は苦しいのではないかと私は思うのです。
賢信が亡くなって3週間後 子供達が起きるなり、「賢信みたで!」と口を揃えて言うのです。
 長女は私の頭の上に座ってママーって呼んでたで、次女は私のお腹の上に寝ころんでたでと言っていました。会いに来てくれたんや〜来てくれないと思っていたから嬉しかったです。でも気づいてあげられませんでした。
私は遺影の前にも立てず、線香も話しかけもできないままです。「死」を素直に受け入れ純粋に悲しいと感じられる子供達だからこそ 賢信の夢や近くにいられることが感じれるのかもしれません。私は後悔やなどがあり、純粋に受け止めれられてないから夢も見ないのかもしれません。
 前は自殺の話を聞くと 自殺する勇気があるなら頑張ればいいのに そう思っていました。でも、違うんですよね。存在できないんです。生きていけないんです。私もいつか子供達のように夢でも賢信に会えるのでしょうか?
2004-01-12 Monday
子どもから教わったこと
小一の長女は私に励ましの手紙をくれます。
私にとっては有り難いことです。
チョ女が頑張っているのを見て、私も頑張らなきゃと思います。
友人に親が子供に癒しを求めてはいけない それは呪縛になる。と言われました。
 言われたことはわかるのですが、今の私にはどうしようもありません。残された家族の存在のおかげで、私は自殺せずにすんでいます。
 賢信のことは多分 残された子供の将来に何らかの影響を及ばすでしょう。
私達の対応でも影響が及ぶと思います。
賢信のことを引きずるのは私。私の悲しみを引きずるのが子供なのかもしれません。
子供達は賢信の死を受け入れています。私は無理です。
だけど私は子供と話し合うことしかできない。何故私がこんなに悲しいのか 賢信が死んだことが誰のせいでもないことを話し合うことくらいしかできない。
きとお子供達は乗り越えてくれる そう信じるしかない。正直 自分の事で精一杯の自分もいる。
私は賢信は可哀相だ。守ってやれなかった。賢信は恨んでいる。そう思ったときがありました。あれが本当に良かったのか あの時のことは本当に正しかったのか悩むこと沢山あります。あの時 こうしていれば・・・
ある日 話をしていると子供達に「賢信はママのこと大好きやったやん。」と言われました。
 そうか、それは未熟な心 賢信は恨むような子じゃない。賢く優しい子。私は賢信自身を見逃すところだった。
 恨んでるやろううなあ 苦しかったやろうなあ 1年で死ぬなんて不幸やなあ そんな事ばかり考えて 賢信が精一杯生きたことも 精一杯頑張ったことも 賢信と過ごした幸せな時間も消してしまっていた。
 賢信との一年はとても幸せをもらっていた。胸を張っていってあげなくては。
未熟な私に賢信は一生分の大きな大きな物を残していってくれました。
2004-01-13 Tuesday
賢信宛の手紙
手紙が届きました。中島賢信とあります。良くある通信教育の案内の類です。
何処で調べたのかしょっちゅう来ます。多分成人するまで来るでしょう。
最初はドキッとしましたし、とても悲しくなりました。なぜならこれを渡せる人がいないからです。
「いないんだ」そう実感させられる 苦しい物です。
止めてもらおうかそう思いました。 
でも、ふと考え直しました。「これは賢信がいた証拠だ」そう思うようにしたのです。賢信あての郵便物はこれから来ることはないでしょう。
 唯一 賢信あてに来る郵便物だ 生きていた証拠だと思うようにしたのです。
 この間来た物にはシールを貼るというのがありました。そうかあ生きていたらシールが貼れるんだあ。
ついていたおまけを遺影の前に置くと 次女が読み始めました。ないように○○ちゃん(子供の名前を読むようにする)とあるところを 賢信ちゃんと言い換えながら呼んであげています。
少し、痛みを伴いながら 賢信がいた証拠を受け取っています
2004-01-14 Wednesday
私の子ども
賢信が亡くなって 人に色々と言われますが、その中で一番感じるのは「賢信が死んだ」という前提の話なんですよね。
残された子供をとかしっかり育てろ とか色々言われますが、私にとっては賢信も同じ「私の子供」なんです。
しっかりしろと言われても今が精一杯のしっかりしている状態だし、頑張れと言われても今が一番頑張っている状態。すべてがめいいっぱいなんですよね。
 子育てもそうなんですよね。みんな めいいっぱいでしょ?
頑張らなくていいんだよ。子供に教えて貰ったらいいと私は思う。
 賢信も私の子供。亡くなって色んな事を教えてくれた。他の子供にも沢山教えて貰いました。
 賢信も私の中で生きていて、私の子供なんです。それは永遠に変わらないんですよ。
2004-01-15 Thursday
車の中で
車を運転していたら 1つだけ速いスピードで動く雲がありました。
 次女と3女がそれを見て、 「けーんしーん」と楽しそうに呼んでいました。
 前も昼間に出ている月を見て叫んでいたことがあって、「うらやましな」と思っていました。
車の中だしと思い 私も大きい声で呼んでみました。
「けーんしーん」
 1回呼ぶと涙が出て来ちゃって それ以上呼べませんでしたが、ほんの少しスッキリとしました。賢信に届いたかな?
今度海にでも行って 叫びまくってこようかしら・・・
2004-01-17 Saturday
生き抜く
生きるって何でしょうね。
今まで私は沢山色んな事がありました。
生きるって何でしょうか?
生きていると辛いこといっぱいあります。
生きていると悲しいこともいっぱいあります。
生きていると嬉しいこともあります。
生きていると幸せなこともあります。
辛いことや悲しいことはよくわかるのに
嬉しいことや幸せなことは見えにくい物です。
自分が生きていることが当たり前なことなのでしょうか?
 私にもわからないのですが 私は命をまっとうするまで生き抜くことにしました。
生き抜いて それから賢信に会いに行きましょう。
2004-01-18 Sunday
支えられています
満中陰志とともに学校と幼稚園に手紙を送りました。そして、賢信が大好きだったビデオを作ったワールドファミリーという会社にも すてきなビデオを作ってくれてありがとうと手紙を書きました。幼稚園では保護者の方にその手紙を配ってくれました。そして、ビデオの会社はわざわざ電話を頂き、会報に載せていただくと言うことと、一緒に棺に入れたことを聞き、そのビデオのセットを送っていただきました。皆さんの温かい心に本当に感謝します。
色んな方に支えられて 私は恵まれていると思います。
私が送った手紙の一部をこの場でも 書きたいと思います。
子供には限りない力があります。
親から見れば「損な性格だ、生きにくい性格だ、社会に適合しにくい性格だ」と思っても、子供達は精一杯生きています。本当に精一杯生きています。
子供が生きてくれているだけで幸せをもらっているという事を実感するのは難しいですが 目の前にある子供の問題はとても些細なことで 生きていてくれてると言うことがどれほど重大で幸せかと言うことを一度考えてみて下さい。生きていれば 変わることも頑張れることもできます。
 子供は願えばそれに答えてくれようとしてくれます。1才の賢信は私達の覚悟が出来るまで25日間立派に答えてくれました。
子供に生きているという幸せを貰っていることに気づいて下さい。
子供が親を必要としているのではなく、親が子供を必要としていることに気づいて下さい。
親が子供に与えるよりも沢山のことを 子供は親に与えてくれています。
何度 抱きたいと願っても、頑張っても賢信は二度と抱っこは出来ません。
 どうしてもっと抱っこしてあげなかったのか後悔だけが残ります。
抱っこ沢山してあげて欲しいと思います。
 みんなが元気に育ってくれるよう 自分らしく生きることが出来ますように。
これ以上同じ気持ちをする人がいないことを祈っています。

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Last updated: 2008/7/3