【リリアン女学園中等部】



 ステンドグラスからこぼれ落ちる朝の光を受けながら、お聖堂にはオルガンの音が幾層もの旋律が響いている。中央奥には十字架に貼り付けにされたキリストの木像。その隣には聖母マリア様がいる。
 蓉子は週一回だけ行われる聖書の朗読とお祈りの時間は嫌いではない。

 幼稚舎から一貫してリリアンに通う生徒が大半を占めるなか、中等部から入学した蓉子はその独特な慣習の数々に面食らうことも多かった。名字ではなく名前で呼び合う習慣や「ごきげんよう」の挨拶などはすぐ慣れたものの、どこか気恥ずかしくて馴染めないものもある。
 
「マリア様はいつでも私たちのことをご覧になっておられます」

 シスターである学園長のお話はときに深い含蓄を絡めながら、毎回、この言葉で締めくくられる。適度に冗長で、でも退屈さとは無縁の話し方は蓉子にとって心地いいものだ。変に押しつけがましくないところもいい。教義はともかくとしても、将来、ああいう女性になりたいと思わないでもない。さすがにシスターになろうとまでは考えもしないけれど。

 学園長のお話を聞いたあとは、聖歌隊にあわせて生徒も聖歌を合唱することになっている。生徒たちは一斉に長椅子から立ちあがった。
 蓉子は胸ポケットに収めていた生徒手帳を取り出しページをめくった。リリアンの生徒手帳には校歌とともに何編かの聖歌の歌詞も収められている。原文と日本語訳のもの両方がならんで掲載されているが、念のためにいうと歌うのは日本語訳のほう。原文で歌うことがあるのは聖歌隊ぐらいのものだろう。
 
 隣にいる江利子も生徒手帳は取りだしたもののそれを開く気配はない。さすがに幼稚舎から通っているだけあって、聖歌ぐらいなら歌詞カードなしでも諳んじられるということらしい。毎週毎週、同じ歌を歌うわけでもないのによく覚えられるな、と思う。自分もリリアンに慣れてくればそらで歌えるようになるのだろうか。

 オルガンが前奏を終え、斉唱がはじまった。

 蓉子の二列前には聖もいてやる気なさそうに立っていた。生粋のリリアン育ちである彼女も歌詞なんて見ようともしていない。でも蓉子は知っている。彼女の場合は江利子のように歌詞を覚えているわけではないことを。彼女はハナから歌う気がないだけだ。歌だけに限らず団体行動そのものが鬱陶しいのだろう。いまだってきっと口パクだけで済ませているだろう。蓉子からは見えないが唇だけはそれらしく動いているに違いない。

 やれやれと思う。

 そしてそう思ったことにも内心で苦笑してしまった。相変わらず聖に対しての距離感を計りかねている自分が可笑しかった。数え切れないほど言い合いをしながら、それでも嫌いにもなれず放って置くこともできない。
 迷惑がっているんだろうなとわかってはいても、つい口出ししてしまう自分の性格にもほとほと呆れる。それでもきっと「よけいなお世話」はやめられないだろうと自覚はしている。
 
 だって、向こうがどう思っているかは知らないけれど、蓉子にとって聖はとてもとても気になる存在なのだから。



 §



「…それでやる気をなくしたわけ?」

 机の上にはしたなく伏せる江利子に、蓉子は呆れたようにため息を吐いた。
 教室内はお昼休み時間特有の開放感に溢れている。普段なら狭く感じる教室も購買や学食にクラスメートの半数が出払っていればガランとした空間へと早変わりする。窓際の、いちばん陽当たりの良い場所では仲良しさん同士集まってのお弁当鑑賞会も始まっていたりする。黄色い歓声と共に揚げ物独特の匂いが流れてきて蓉子のお腹もぐぅと鳴った。
 突っ伏したままの江利子はそんなことお構いなしに「もー行きたくなーいー」と駄々をこねた。蓉子ほどではないもののまずますの優等生として知れている江利子らしからぬ所作である。
 
「行きたくないって…」
「クラブ変える。一年間もあんな所にいたくない」
「そんな無茶な」
 
 蓉子は苦笑してしまった。
 リリアン中等部には一斉クラブという時間がある。任意で所属する課外のクラブ活動とは違って全生徒が学年の垣根を越えて一緒に活動するという授業の一環である。年度ごとにクラブを選択する事ができるのだが、逆に言えば一年間はそのクラブからよそに移ることができない。だからその一斉クラブの中で行われる授業がどんな内容なのか知っていないと酷い目にあう。一年生だと、そのあたりの情報がないから良くやりがちなのだが、上級生になってから失敗するというのはある意味珍しい。

 江利子が選んだのはたしか書道部だったはずだ。一年の時は囲碁部に入っていたと記憶している。どういう基準でクラブを選んでいるのかよくわからないが、彼女の中には一定のルールがあるのだろう。

「で、やる気を失った理由はなに?」

 なんでも上手くこなす江利子だから、クラブの内容がどうということはないだろう。担当する先生にでも問題があるのだろうか、と蓉子は思った。ムシが好かないとか江利子ならあり得そうである。

「理由…。あるけど、あんまり言いたくない。なんか悔しいから」
「言ってもらわないとわかんないんだけど」

 う〜、と江利子は唸る。どうやらプライドの問題らしい。蓉子は彼女の心中で勝負がつくのを待った。ややあって幾ばくかの葛藤を乗り越えたらしい江利子は渋々ながらも語りはじめた。

「一年生にね。とんでもない子がいたの」
「とんでもない?」
 
 まさか喧嘩でもしてきたんじゃなかろうな、と思いながら蓉子は聞く。一年も付き合っているとだいたいのひととなりはわかってくる。黙っていれば優等生然とした江利子もこれでなかなかどうして底意地が悪くて鼻っ柱も強いのだ。……本人には面と向かって言えるものではないけれど。
 
「書道ってね。ちゃんと習ったことはないけど、それなりに自信はあったのよ。ほら、うちってお父さんがお店やってるから熨斗書きとか手伝わされるのよね」
 
 他人様に差し上げるものだから熨斗書きとはいえ下手な字は書けない。自然、見栄えの良い字を心がけるようになって、初等部の高学年の頃には習字のコンクールでも入賞するほどだったという。習わなくても綺麗な字が書けるなんて蓉子には羨ましい話だが、江利子にはそうでもなかったらしい。
 
「といってもやっぱり独学は独学だから、一度くらいはちゃんと基本を習ってみようかなーと思ったわけ。ほら、一斉クラブだったらわざわざ書道教室に通うなんていう手間が省けるじゃない。授業だからお金もいらないし」

 まあ、それはそうだと蓉子は頷く。しかしそれと江利子の愚痴がどう繋がるのだろう。

「ということは集まる生徒たちの力量なんてバラバラもいいところなのよ。筆も持ったことのない初心者から、段位持ちの経験者まで有象無象が同じ教室に放り込まれているというわけ」
「はあ」
「先生もそんな事情は承知してるから、まずは集まった生徒の実力を知るために自由に書かせてみたわけよ」

 ところがね、と江利子の声が沈んだ。
 
「そのなかで私が一番巧いだろうとまでは思っていなかったけどそれなりに自信はあったのよ。ちゃんと習えばどんなに上手い人がいても追いつけるつもりだったの」
「ははぁ、なるほどね」
 
 えらく持って回った言い方だったが、江利子が言わんとすることに蓉子はようやく気付いた。
 
「つまり、隣に座っていた一年生の腕前に到底敵わないと思ったから、辞めたいと思った――と、こういう訳ね?」
「…どうしてそう傷口に直接塩を塗りたくるような物言いするかなぁ。身も蓋もないじゃない」

 恨めしい目で蓉子を睨むと、ふたたび江利子は机に突っ伏した。
 
「こんな事なら手芸部にでもしておくんだった…」
「…運動部には興味はないの?」
「勧誘とかくると面倒」
「あ、そう」
 
 たしかにそれは面倒だ。ただでさえ委員会とかそっち方面で手を取られることが多いのに、さらに部活動まで加わられるといくら手があっても足りなくなってしまう。
 ふと、蓉子はまだ聞いていなかったことを思い出した。まだ机に伏せたままの江利子の後頭部に向けて聞いてみる。
 
「で、その年季の入った一年生のお名前は?」
「――有名な、あのお姫さまよ」
「お姫さま?」
「そうよ」

 ぶっきらぼうに答えて江利子はまた唸り声を上げた。
 お姫さま――蓉子の知識の中にその単語はあるが、それを冠するような生徒など記憶にない。というか一年生について知っていることなどほとんどない。

「お姫さまって、だれ?」
「このリリアンでお姫さまって言ったらあの子しか――」

 いないじゃない。という言葉は発せられなかった。
 代わりになにかに気付いたように江利子は伏せていた顔を上げた。
 
「そうか、中学からの蓉子は知らないんだ」
 
 腕を組んだうえに長い時間乗せていたものだからおでこに赤い跡が残っている。
 
「リリアンに通ってる生徒って外からはお嬢さまばかりってことになってるじゃない。入ってみると実はそうでもないことが分かるけど、まあ中には社長令嬢やらタレントの娘とかが混じってたりするから、概ね間違いではないわね」
「今日はまた回りくどい説明ばかりじゃない」
「まあ聞いてよ。――そんなリリアンだけど、時には正真正銘のお嬢さまっているのが存在したりするわけ。由緒正しいとか言ったりするような、ね」

 江利子は同意を求めるように蓉子を見る。「それで?」と蓉子は続きを促した。
 ところが江利子はまたも話を変えた。
 
「小笠原グループって知ってる?」
「百貨店とかレジャー施設を経営してるおっきな会社」
 
 すらすらと蓉子が答えると江利子はちょっとだけビックリしたように頷いた。
 
「よく知ってるわね…」
 
 確かに普通の中学生なら会社の名前がどうのこうのというのはわざわざ意識しないものだろう。
 生活に密着している家電メーカーや有名なブランドとかなら身近なものとして知っていてもおかしくないが、経営を司る会社名となると興味の次元が異なるものだ。
 
「身内にね、勤めているひとがいるから」
 
 蓉子はそれだけしか言わなかったが、そう、と江利子は納得したようだった。
 そしてここまで話してもらえれば蓉子もその「お姫さま」なる女生徒についてピンとくるものがあった。なるほど、と思う。
 
「――それで、その一年生の名前は?」
 
 蓉子の問いに、江利子は面白くもなさそうな声で答えた。
 
 
「小笠原祥子」
 
 
 
 
 
 
 


←BACK〕 〔↑INDEX〕 〔NEXT→