【リリアン女学園高等部】
山百合会の面々が薔薇の館に集まって昼食をとることが多いのは、お姉さまに会ったり、おしゃべりしたりするためというだけではなくて、生徒会の仕事を片付けるのにも都合が良いからである。
放課後だとそれぞれに用事があったり、部活に参加したりとなかなか全員が集まるのはむずかしい。山百合会の仕事は大きなイベントに向けての準備だけではなく、会員を構成する高等部生徒の日常における細々とした問題解決についてもその責がある。年度末に行った予算編成に基づいて行うクラブごとの予算の分配は、この時期一番の難題であった。
「…これはちょっと遅くなりそうね」
珍しく紅薔薇さまがクラブごとの資料を揃えながらため息を吐いた。
「黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)がいたらねぇ」
「それは言わないの」
慨嘆したのは白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)で、それを窘める紅薔薇さま。
悪いことは重なるもので、黄薔薇さまが先週から体調不良で入院してしまい人手も不足している。紅薔薇さまと白薔薇さだけで全てを取り仕切るのは、できないことはないが難しい。これは能力の問題ではなく単純に労働力と労働時間の問題である。
社会人みたいに残業でもできればいいのだろうが、門限の決められたお嬢さまたちばかりではそうもいかない。薔薇のつぼみである蓉子や江利子もできるだけ協力してはいるが、正直に言えばもうひとりいてもらいたいと思う。しかしながら生徒会活動に興味のない聖の協力は期待できないし、江利子の妹である支倉令は剣道部のほうで忙しい。
リリアンの校門が閉まるのは午後六時。それまで居残って片づけられるかしら、と呟くお姉さまに蓉子は口籠もる。
「私はお手伝いできますけど…」
言って蓉子は隣で黙々と作業をしている祥子に目を向ける。良くやってくれてはいるがまだまだ一人前とはいかない。教えながらだから蓉子の方も多少の手は取られる。それに――
「祥子、今日は放課後空いてる?」
だめもとで蓉子は聞いてみた。几帳面な文字で帳票を記入していた祥子は筆をとめると申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんなさい。六時までには行かないといけない用事がありまして…」
「またお稽古?」
「――すみません」
「こんなときぐらいお休みはできないの?」
「蓉子、あまり無理は言わないの。ほら、祥子ちゃん、困ってるじゃない」
紅薔薇さまが苦笑しながら仲介に入った。こういうとき紅薔薇さまはいつも祥子の味方になる。三年生は一年生に甘いものだ、というのがリリアンでは定説だ。
「ええ、それはわかってはいます。けど…」
蓉子ももちろん祥子の習い事の多さは知っていた。中等部の頃から、いやそれ以前から彼女はなにかに憑かれたかのように習い事を増やしていたから。「手伝いなさい」と言えば不承不承でも祥子は従うだろう。でもそれが良いことなのかどうか蓉子にはまだ判断できないでいる。
蓉子は軽く息を吐くと祥子に向き直った。
「…来週ぐらいが大詰めになるだろうから、予定を空けられるなら空けておいてくれないかしら」
「わかりました」
蓉子の葛藤に気付くこともなく、祥子の返事は実にあっさりしたものだった。
§
五月の終わりの火曜日。
今日は薔薇さま方が揃ってご用事だというので薔薇の館での集まりはひとまずキャンセルとなっていたけど、授業を終えた蓉子は特に用事もなかったので薔薇の館に立ち寄り、ひと仕事してから帰ることにした。江利子も誘ったのだが身内での約束があるとかでHRが終わってすぐ帰ってしまった。令はもちろん部活があるし、聖は近頃、薔薇の館に近寄ろうともしない。
入院していた黄薔薇さまは、先日無事に退院されている。しかし、いつ再発の恐れがあるか分からないというので、すぐ復帰というわけにはどうやらいかないようだった。リハビリも兼ねて今週一杯は病院通いが続くらしいとお姉さまは言っていた。それでも学校に通えるようになったのだから良かったと思う。妹である江利子もこれで少しは落ち着けるだろう。
山百合会の仕事は相変わらず山積みのままだった。先週こそ祥子の手伝いで遅れを取り戻したものの、次々と舞い込む些事に手を取られて、全体としては遅々として進んでいない。このままだと学園祭の準備にだって差し障りがでてくるかもしれない。それは困る。
他のつぼみたちがイマイチ役に立たない現状では蓉子がひと一倍頑張るより他にない。それにお姉さまの負担が少しでも減らせるならば、蓉子としても嬉しいのである。
「ええと、演劇部の衣装の件はもう終わったし、華道部の備品は……えーと」
歩きながら頭の中であれこれチェックをいれていく。ただ言われた仕事をこなすだけでは紅薔薇のつぼみとしている意味がない。薔薇さまたちの分担している仕事を一通り網羅し、手を出せるところは出していく。単純な簿記関係は祥子にやってもらうとしても、学校との打ち合わせに必要な資料とかは蓉子が手掛ける必要がある。山百合会以外の委員会活動にも手を出している蓉子はそちらの調整も計らねばならない。最近はさすがにちょっと疲れてきているのか頭も重くなりがちだった。
「…あれ?」
蓉子は薔薇の館の扉の前で小首を傾げた。持っていた鍵をポケットに戻し、ドアノブを押してみるとなんなく開いた。鍵が掛かっていない。
「誰か来ているのかしら」
誰だろうと思いながら、ギシギシと軋む階段をゆっくり上った。ひとけのない薔薇の館は本当に静かだ。外気より少しだけヒンヤリとした空気もなんだか気持ちよくて、蓉子はおおきく息を吸う。
ビスケット扉を開けると、窓が開いていて、穏やかな風がカーテンを優しくはためかせている。テーブルの上には帳簿やノートが広げられていて、一緒だったらしいプリントが風にさらわれて床に落ちている。その向こうには机に突っ伏して穏やかな寝息を立てている祥子がいた。風が吹くたびに祥子のそばにあるノートがぱらぱらとめくられていく。かなり深い眠りにあるらしい。
「風邪ひくわよ、もう」
蓉子は音を立てないように注意してビスケット扉を閉じると、鞄を近くの椅子に置き、散らばってしまっているプリントを一枚一枚拾い上げた。それは蓉子が今日のうちに終わらせておこうと思ったマリア祭の報告書の一部だった。
「…お節介め」
なにを言いようもなくて蓉子はそんなことを呟く。なにをやっていたかは一目瞭然だ。姉妹揃って似たようなことを考えるというのは良いことなのか悪いことなのか。
「でも途中で寝てしまうところがまだまだ子供ね」
寝ている祥子のすべすべした頬を軽く突く。嬉しさやらなにやらが入り交じった感情が蓉子を包み込んで心が暖かくなるのを感じる。まったく生真面目なんだから。
いつから薔薇の館にいたのか知らないが、祥子のお弁当箱がまだ机のうえに乗ったままということは、もしかしたら彼女は午後の授業に出ていないのかも知れない。
「…んんっ…」
ひとの気配を感じたのか、祥子が身動ぎした。お昼休みからここにいたと考えるなら、もう二時間以上眠っていたことになる。先生たちは祥子が教室に居ないことに気付かなかったのだろうか。
「…ぁ」
ふっと祥子は目を覚ました。
顔を上げ、ぼぅとした瞳で室内を見回す。蓉子と眼があって無言の時が流れる。そういえばいつかこんな事があったな、と蓉子は思った。
「お姉さま…」
ちょっとだけ舌っ足らずな調子で呼ばれて、蓉子は思わず苦笑してしまった。
この様子だと寝起きが悪いという本人の言は本当の事なのだろう。少しだけ悪戯な気分が湧いてきて、蓉子は「よく眠れたかしら? 祥子」と軽い皮肉を投げてみた。さて、どんな反応を返すだろう。
身を起こした祥子は「――はい」と返事をして、乱れていた髪を両手でさらりと梳いた。
艶やかな黒髪は少しの重さも感じさせないままいつもの場所に落ち着く。頭をのせていた所為で、皺になってしまった袖口が気になったのか眉を顰めながらちょっと引っ張る。もちろんそれぐらいで直るものでもない。祥子はそれからテーブルの上にあった自らの弁当箱に気付いた。
怪訝そうな顔をして、ぐるりと部屋を見渡して、蓉子を見て、ちょっと考え込んだあと――
薔薇の館に悲鳴が響き渡った。
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