【リリアン女学園中等部】



 旋律が流れてきた。グノーのアヴェマリア。

 向こうには聞こえないと分かっていてもなるべく足音を立てないようにして蓉子は音楽室へと向かう。今日は用事のない理科準備室を過ぎ、前回と同じくピアノが覗ける位置まで移動。見つからないようにそっとなかの様子を窺った。

「――いた」

 女の子はあのときと同じように、スツールに座り、ピアノに向かってその鍵盤を叩いている。やはり周囲にひとの影はなく彼女ひとりのようだ。
 
 さて、どうしよう?

 腕を組んだところで演奏がぴたりと止まった。慌てて室内を覗き込むと彼女はスツールから立ちあがり鍵盤のカバーを閉じるところだった。今日の演奏は終わりということだろうか。でも昼休みが終わるにはまだ時間があるはずだ。時計を確認すると、予鈴が鳴るまであと十数分はある。
 蓉子が雑多な思考に囚われているうちに彼女はさっさと片付けを終え音楽室から出て来た。扉を閉め、廊下にいる蓉子を一瞥したのち、まるで誰もいないかのように蓉子のそばを通り抜けようとする。

「ねえ、あなた」

 蓉子が呼び止めると、彼女はすれ違う一歩手前で足を止め、蓉子を値踏みするように眺めた。身長はわずかに蓉子が高い。腰まで届いている黒い髪。端正な顔はまさに美少女と形容しても良いだろう。ただ眉間にはわずかな険が見え隠れしていた。あまり機嫌が良くないらしいと蓉子は思った。

「あなた――一年生?」
「そうですが。…それがなにか?」
「今日の演奏会はもう終わりなのかしら?」

 彼女は蓉子からつい、と視線を逸らせる。それからぽつりと言った。

「覗かれるのはあまり好きではありませんから」
「そう――ごめんなさい。悪かったわ」
「いえ…」

 蓉子が素直に謝るとは思っていなかったのだろう。彼女はわずかにたじろいだように見えた。

「…言い過ぎました。今日は五時限目が移動教室なので早めに終わらせただけです」
「ああ、なるほどね」

 そうか。蓉子は得心がいった。誰かに雰囲気が似ていると思ったが、この素っ気なさは聖そっくりだ。他人を近寄せないオーラが全身を覆っているところなんて瓜二つのよう。髪が長くて美人というのもそうだ。もしかしたら、と蓉子は思う。自分がこんなにも彼女に興味を抱いたのはその所為なのではないだろうか。

「あなた、いつもここで弾いているわよね。どうして?」
「…先生から許可は頂いていますが」
「ああ、別になにかを見咎めたというわけではないのよ。ただ、純粋にあなたの演奏が気に入ったから聞いてみたいなって思っただけ」

 いけなかったかしら。言う蓉子に、女生徒は奇異な視線を向けたものの「教室にいてもする事がありませんから」と、それだけを返した。
 
 蓉子が口を開きかけたとき、彼女を呼ぶ声が廊下に響いた。
 振り向いてみると階段の方に江利子の姿がある。マナー違反にならない程度の早足でこちらに駆け寄ってくるところだった。

「――では失礼します」
「あ、ちょっと」

 歩き出しかけた女生徒が怪訝そうに振り返る。
 
「また、聞きに来てもいい? こんどは堂々と聞かせていただくから」
「……ご自由に」

 女の子はそれだけ言い残すと「では」と一礼して、さっさと階下へ通じる階段の方に歩いていってしまった。
 途中、こちらに向かってくる江利子と彼女がすれ違う。会釈だけ交わしてふたりは別れた。江利子は蓉子のもとへ辿り着くと玄妙な顔で尋ねてきた。

「蓉子、なにを話していたの?」
「ちょっとね」

 曖昧な返事に、ふ〜ん、とだけ返した江利子は階段をまさに降りようとしている彼女を顧みた。

「気難しいお姫さまと世間話ができるのはあなたぐらいかもね」
「…お姫さま?」
「あれ。知らなかったの?」

 江利子が驚いたように言う。

「あれが小笠原祥子よ」

 ああ、あれがそうなのか。蓉子は不思議と納得してしまった。
 蓉子は彼女が歩き去った階段に目を向けた。でもあの凛とした後ろ姿はもうそこにはない。蓉子は先ほどまでの会話を思い出しながら呟いた。

「……そう。あの娘が」



§



 蓉子から見て、小笠原祥子という存在はクラスのなかであきらかに周囲から浮いていた。談笑するような友人もあまりいないようで彼女はいつもひとりきりでいることが多い。
 もちろんそれは嫌われているとか無視されているという意味ではなく、どちらかといえば高嶺の花だから、といった感じの遠慮が彼女のまわりを囲んでしまったからだろう。ある意味、偶像視ともいえるかもしれない。しかしそうなってしまった原因は祥子にも帰せられるのではないか、と蓉子は思った。

 もし祥子が平均的な美貌しか有していなかったら、もうちょっとだけ友好的な性格を持っていたら、彼女はここまで孤立することはなかったかもしれない。それに彼女の背後には、家柄だとか、小笠原グループだとかの影がどうしてもちらつく。気になるひとには気になるものだろう。これは決して本人の所為ではないが、だからといって切り離すことの出来るものでもなかった。

 二度目の出会いからしばらくして、蓉子は週に一回、或いは二週間に一回程度、音楽室で祥子と逢うようになっていた。とはいえ逢って特になにをするというわけでもない。ただ黙って祥子のピアノ演奏を聴くだけだ。祥子の方も蓉子が訪れることを歓迎はしなくとも容認はしているようで、過度の干渉さえしなければ何も言わなかった。
 
 祥子のレパートリーは豊富だった。クラシックはもとよりカントリーやジャズまでこなした。
 演奏の合間に交わされるあまり多くない会話から、祥子は五歳の頃からピアノを習っていたということや、バレエやお茶、華道も大家について学んでいることを蓉子は知った。
 
 日に日に彼女への興味が増していく自分に蓉子は気付いている。聖に似ていたから、という理由は自分でも納得がいった。でも日が経つにつれどこか些細な違和感を覚えるようにもなった。なにか、という具体的なものはない。ただなんとなく、としか答えられない曖昧さ。
 
 でも――。
 
 そう、でもどこか。
 どこか身近なひととおなじ匂いを感じるような、そんな瞬間が確かにあったと、蓉子は思うのだ。
 
 
 
 §
 
 
 
 音楽室の扉を開けると“洋上の小舟”の荒波のような旋律が蓉子に襲いかかり、岩礁にぶつかったように四散した。飛沫のような残響を身にまといながら蓉子はしばらく立ち竦む。珍しく。祥子には珍しい荒々しい弾き方だった。
 蓉子は黙ったまま窓際にあるいつもの椅子にそっと腰掛けた。その場所からは祥子の俯いた横顔が良く見える。普段とほとんど変わらない表情はでも蓉子から見ると少し苛立っているように思えた。なにかあったのだろうか。

「聞いていいかしら?」

 演奏が途切れた瞬間を捉えて、蓉子は尋ねた。鍵盤から顔を上げた祥子は無言だったが、話の続きを催促するような視線を蓉子に向けた。

「なにか、嫌なことでもあったの?」
「…なぜです?」
「ちょっと苛立ってたようにみえたから……気のせいならごめん」

 祥子は答えなかった。ふたたびピアノに向かい合い今度はリストの曲を奏でる。数分で弾き終える小品を二度、弾いたあと、彼女が最も得意としているグノーのアヴェマリアへと移る。曲が終わったあと、蓉子はふと思い出した積年の疑問を祥子に尋ねてみることにした。

「『マリア様の心』って曲があるじゃない。あれってリリアンの生徒のほとんどが当たり前にように口にするんだけど、何故なのか知ってる?」
「…中学からリリアンに来られた蓉子さまはご存じないかも知れませんが、『マリア様の心』は幼稚舎で、一番最初に教わる聖歌なんです。とても簡単だから子供でもすぐ覚えられますし、幼稚舎でお歌の練習をするときも必ず歌います。子守唄にだってなるんですよ」
「へえ…」

 蓉子は素直に感心した。

「…弾いてみましょうか?」

 珍しく祥子がそんなことを言う。いままでも聞かれたことには答えたが、自分から進んで話しかけたり、意志を示すと言うことはなかった。意外さに驚きながらも蓉子はそれを顔には出さず、頷いた。

 祥子の指が鍵盤にのせられイントロが流れる。まだ馴染みがないはずなのにどこか懐かしさを覚えるそのメロディーが蓉子の耳をくすぐる。そして前奏を終えるとピアノの旋律に祥子の歌声が加わった。

「マリア様のこころ それは――」

 蓉子は息を呑んだ。天使の歌がそこにあった。
 これまで聞いたことのあるどんな『マリア様の心』より美しく、そして厳かな歌声。素朴ででも心に染みいるようなたぶんこれが本当の『マリア様の心』。
 演奏が終わっても、蓉子はしばらく口をきくことができなかった。素直に凄いと感動していた。
 
「如何でした?」 
「……そうね。素晴らしかった。これまでもそんなに悪い歌だとは思っていなかったけど、あなたが聞かせてくれた『マリア様の心』はまるで別物みたい」
「ありがとうございます」

 嬉しそうに祥子は眼を細めた。
 
「本当に素敵な歌だったわ」
「あの、蓉子さまはピアノを弾かれないんですか?」
「嗜み程度には習ったことがあるけど、途中でやめちゃったの。だからあなたのようには弾けないわ」
「でも弾けるんですよね」

 なにか思いついたように祥子は微笑んで、壁際に置いてあった予備のスツールをピアノの前に運んだ。
 鍵盤の前に並べられたふたつのスツール。蓉子はその配置を見たことがあった。あれはピアノ教室に通い始めたばかりの頃だっただろうか。ピアノの鍵盤に触れるのが嬉しくて、メチャクチャにキーを叩いていたら、隣に座っていた若いお姉さん先生が、蓉子の手を取って一緒に弾いてくれた。自分の指が奏でる音楽に、蓉子はとても感動して――。

「なにするの?」
「『マリア様の心』」

 言いながら祥子は蓉子に近づいてきた。
 差し出された彼女の手を取ると、そのまま手を引かれて鍵盤の前に座らされる。

「なに?」
「蓉子さまもリリアンの生徒になられたんですから覚えて頂きたいんです」
「え、でも」

 大丈夫、と祥子は笑った。

「私が教えてさしあげますから」









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