【リリアン女学園中等部】
季節はもうすぐ秋になろうとしていた。
二回目になる中等部の運動会も無事に終了し、残す行事は文化祭だけとなった。蓉子たち二年生にはまだ修学旅行というイベントが控えているものの、今年は文化祭のあとに行われる予定なので、当面は文化祭に向けての準備に追われることだろう。
祥子との逢い引きも今のところ順調に続いている。
話し合って逢う日を決めている訳ではないが、なぜかいつも揃っておなじ日にお互いの姿を音楽室でみることがよくある。あまりそんな言い方を好まない蓉子だが「運命的」というのはこういうものなのだろうかとも思う。なんにせよ祥子が喜んでくれているのが嬉しい。
江利子には時たま冷やかされることがあるが、あれはきっと面白がっているだけに違いない。憤慨するのも江利子を楽しませるだけなので、蓉子は黙ったままそれらの軽口を受け流すことにした。
夏はもう終わりかけている。
§
その日は秋晴れというのももったいないほど良く晴れた一日だった。授業がお昼までしかない土曜日だったこともあって、クラスというより学校全体がなんだか浮かれているようにも感じる。
銀杏並木を抜け、マリア像のまえで手を合わせる。高等部の方も授業が終わったのかちらほらと高校生の姿も見受けられた。登校時や下校時にちらほら見る彼女達は、中学生と比べてもかなり大人の人に見える。仲の良い友達と歩いているひと、集団で行動しているひとに混じって、ふたりきりで歩く生徒もいる。その生徒たちは必ずと言っていいほど寄り添ったように歩いている。
あれが「姉妹」なのだろうな、と蓉子は教えられたばかりの知識でそう判断した。なんでも高等部にはそう言うシステムあるらしい。姉となった上級生が、妹となった下級生を教え導くとか何とか。さすがお嬢様学校だと蓉子は感心したものだ。
合掌していた手を下ろし脇に挟んでいた鞄を抱え直すと蓉子は校門に向かって歩き出した。ふと気付くと見覚えのある後ろ姿が目の前にある。
(祥子――?)
確かにその楚々とした麗姿は彼女のものだ。後ろ姿であっても普通の生徒とはどこか違う印象を持たせるのはさすがと言うべきだろうか。それにしても下校時に祥子の姿を見るのはとても珍しい事だった。いつもなら蓉子が校門に辿り着いたときには祥子はもう黒塗りの車で走り去ったあとだったりするのだ。
「祥子さん」
あまり大きな声で呼ぶのもなんだろうと蓉子は遠慮して呼びかけた。まだ他人の前で呼び捨てにできるほどの関係でもない。蓉子の遠慮気味の声もどうやら先方にはちゃんと届いたようで、祥子は蓉子の姿を認めるとその場で足を止め、蓉子が追いつくのを待っていてくれた。
「珍しいわね。こんなところで逢うなんて」
「今日は用事もないので、少しゆっくりしましたから。蓉子さまこそいつもよりお早いのでは?」
「うん。特になにがあるって訳でもないんだけどね。来週からは文化祭の準備に取りかかるだろうから、今日ぐらいは早く帰って読書でもしようかと思ったのよ」
「蓉子さまはどんな本をお読みになられるのでしょう?」
「そうねぇ。最近は翻訳物が多いかしら。ミステリとか、恋愛ものとか。あなたは?」
「私は乱読する質なので、これというものは…」
そんな他愛もない雑談を交わしながらふたりは校門を抜ける。中等部の生徒たちが興味深げに自分たちを眺めているのに気付いたが、蓉子はあえて気にしないようにした。まあ気にしたところで追い払うわけにもいかないのだけれども。
校門前の車止めには何台か迎えの車が止まっていた。リリアンには裕福な家庭の子女が通っているから、こうやってお迎えのある生徒の数も少なくない。
リリアンの生徒の大部分は学園の前を通るバスを主に利用している。幸運にも自宅が近い生徒は徒歩で通っているし、自宅から通えない生徒のための寮設備もリリアンには整っていた。蓉子はもちろんバス通学派である。
一緒に歩いていた祥子が一台の車に近づいていくと、運転手さんらしき男の人が飛び出してきて祥子のために後部座席のドアを開けた。
「――お、お母さまっ!」
「へ?」
そろそろお別れを、と思っていた蓉子は、祥子がいきなり驚いた声をあげたので、間抜けな声をあげてしまった。ふたりで立ち竦んでいると、車の中から和服を召した綺麗な女性が降りてきた。年の頃は三十代なかばぐらいだろうか。よくはわからないが。
その女性はにこにこ笑いながら祥子に近づき、でも怪訝そうに小首を傾げた。なんというかその仕草は凶悪的に可愛いと蓉子は思ってしまった。年上のひとなのに。
「お帰りなさい祥子さん。……どうしたの?」
祥子はまだ驚いているらしく声を発しない。困った女性は、祥子の後ろにいた蓉子に気付いて会釈をしてくれた。
「祥子さんのお友達かしら?」
「え。あ、はい」
祥子から感じるのとはちょっと違う威圧感のようなものに押されて、蓉子は思わず返事をしてしまった。いったい誰なのだろう。この女性は? そう言えば祥子がなにか叫んでいなかっただろうか。
「……お母さま、どうしてここへ?」
「あら、母親が娘のお迎えに来てはいけないの。今日はお家にお客様もないようだからたまにはと思ったのだけど」
祥子のお母さまだったのか。そう言われてみると確かに祥子に似ている。いやこの場合は祥子がお母さまに似ていると言うべきか。
「お母さま、ご紹介します。いつもお世話になっている先輩の水野蓉子さまです」
その声に我に返った蓉子は頭を下げる。
「はじめまして、水野蓉子です」
「そう、あなたが水野蓉子さんなの。いつも祥子さんがお世話になってます。母の清子です」
「いえ、こちらこそ…」
「そうだわ!」
清子さまが良いことを思いついたというように手を打ち合わせた。
「蓉子さん、このあとご予定は?」
「特にありませんけど…」
「じゃあ、これからご招待しても構わないかしら?」
「お母さまっ!」
祥子が抗議の声をあげたが清子さまは歯牙にも掛けなかった。
「ね、どうかしら」
「えっと――」
どうしようか。珍しく判断がつかなくて蓉子は戸惑う。でもせっかく誘って下さったわけで、特別用事もないので断るのも忍びない。横目で祥子の様子を探ってみたが困ったような顔はしているものの、嫌がっているわけではなさそうだ。蓉子は腹を括った。なにより祥子ともう少し話ができるかもしれないというのはなかなか魅力的でもあったわけで。
「じゃあ、邪魔させて頂きます」
蓉子が言うと「決まりね」と清子さまは満面の笑みを浮かべられた。
§
小笠原家の歓待はそれはもう蓉子の想像を超えたものだった。
小笠原グループの会長であるお祖父さまや、祥子のお父さまである融小父さまも同席して、それはまるでお見合いの席かなにかのよう。さすがに「あとは若い人同士で」なんてことはなく、学校での祥子の様子であるとかいろいろと尋ねられたりした。
「なるほどなぁ、女子校というのはやっぱり男にとって神秘の場所だよ」
「はぁ」
そんなに感心するようなことかなぁ?
融小父さまの演技じみた感嘆の仕方に蓉子は内心で呆れる。
お祖父さまからは蓉子の趣味であるとか、将来の夢だとか、家族構成だとかを聞かれ、まるで面接でも受けたような気分になった。
結局、受け答えが良かったのかどうか、そのお二方にはかなり気に入られてしまい、祥子のことをくれぐれも頼むとまで言われてしまった。その肝心の祥子はというと歓談中ずっと不機嫌なままで、蓉子が小笠原家を辞去しようとするまでほとんど喋ることはなかった。
家に押しかけたのはマズかったかな、と思った蓉子が帰りの車内で謝ってみると、怒りの矛先はどうやら家族に向かっていたものらしく、ちょっと拍子抜けしてしまった。どうも祖父と父の登場は祥子にとっても予想外のことだったらしい。蓉子に対して失礼だとか、騙された、とかぶつぶつ呟いては憤っていた。
車は時間のわりに渋滞に巻き込まれることなく蓉子の自宅に辿り着いた。あたりはもうそろそろ暗くなりかけていた。門限まであと数分。運転手さんにドアを開けてもらい歩道に降りる。
「今日はすっかりお邪魔しちゃったわね」
「ごめんなさい。まさかあんなことになるなんて思わなくて…」
「いいのよ。ご両親にお会いできて楽しかったわ」
「そう言って頂けると助かります」
祥子は頭を下げた。蓉子は祥子にも自分の両親を紹介するから、と言ったのだがこのあと用事があるとかで断られてしまった。
「ごめんなさい。またの機会にお願いします」
「ええ」
「それでは失礼します。ごきげんよう」
「ごきげんよう」
もう一度お礼を言ってから祥子は車に乗り込んだ。
ドアが閉められるとサイドウィンドウが開いて祥子が顔を覗かせた。
「蓉子さま」
「ん、なに?」
「あの……」
言い淀む。言いたいけど言って良いものかどうかわからない。
その仕草が小さな子供の、一生懸命さを思わせて、だから蓉子は前屈みになって目線を合わせて、そして優しく尋ねる。
「なぁに?」
「えっと……あの、嫌でなかったら……」
ウィンドウの向こうで祥子はおろおろと視線を彷徨わせる。
暗い闇の中でも祥子の白い頬がうっすらと羞恥に染まっているのが判る。やがて祥子は勇気を振り絞ったような声で蓉子に言った。
「また、遊びに来てくれますか?」
嫌だ、なんて言えるはずがなかった。
――そんな顔で言われては。
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