【リリアン女学園中等部】
日に日に冬休みが近づいていた。帰り際の夕陽は燃えるように赤い。
風が吹くたびに葉っぱを吹き飛ばされて裸にされつつある銀杏並木が寒そうに揺れている。そろそろスクールコートが必要かもしれない。マリア様の前に着いて、手を合わせながら、最近祥子の顔を見ていないなと蓉子は思った。
「…なに黄昏れてるの?」
ちょんちょんと肩をつつかれて振り返ると江利子がいた。
「なんだ、江利子か」
「また失礼な言い草ねぇ。祥子ちゃんじゃなくて悪かったわね。それとも聖が良かったのかしら?」
「ごめんごめん」
苦笑しながら蓉子は謝り江利子と連れだって校門へ向かった。ときおり吹き寄せる向かい風が頬に冷たい。駆け足でふたりを追い抜いていく女生徒の後ろ姿を見送りながら蓉子は思い出した。
「ねえ、江利子」
「なに」
「聖と仲直りしたってホント?」
「はい?」
なんの話って顔を江利子はした。たしかふたりの間で修好条約が結ばれたとか何とか聞いたはずだった。しかし詳しいことは蓉子は知らない。というか誰から聞いたことだったのかも覚えてはいなかった。もしかして誤報だったりしたのだろうか。
「…違ったかしら」
「んー」
江利子は唸った。言葉を探すような、そんな時間を経て、言う。
「『ある意味正解だけど真実じゃない』って誰の言葉だったかしら」
「誰の言葉でもないわよ。捏造しないで」
「ふむ。とにかく事の一面のみを見たならただの友人も仲が良い友人に見えなくもないってところかしら」
「…というと?」
「単に立ち話をしただけよ」
「へえ」
蓉子は感心した。簡単に立ち話と江利子は言ったが、これまでのふたりを知っていたならそれだけでも大いなる進歩と言えるだろう。廊下で見かけるだけでもまわり右して遠ざかったという江利子と聖が、どんな話題か知らないが立ち話したというのは今後の付き合いを考えるのならば喜ぶべき事だった。
言葉を交わさなければ、どんな関係でも始まりはしないのだし。蓉子はそう思う。
「それで、なにを話していたの?」
「たいしたことじゃないわよ」
「いいから。ほら、蓉子さんに話してみなさい。ほらほら」
「なんでもないってば」
「えー」
「つまらないことですって」
「もったいぶらないでよ」
「しつこいなぁ」
「だって水野蓉子ですから」
「…納得」
しかし口論もそこまで。
逃すと寒い中ずっと待ち続けなきゃいけないバスがふたりの横を追い抜いていく。
蓉子と江利子は一旦顔を見合わせて、それから慌ててバス停へと走り出した。
§
家に帰り着くと電話が鳴っていた。
お母さんいないのかな、と思いつつ蓉子はバタバタと靴を脱いで鳴り続けている電話に向かった。相手に聞こえるはずもないのに「はいはい」と声が出る。留守電に切り替わる寸前、蓉子は受話器を取ることができた。
「はい、水野です」
『あの小笠原と申します。突然で申し訳ないのですが蓉子さんはご在宅でしょうか』
「あ、私ですけど」
受話器の向こうでほっとしたため息が洩れたようだった。
『ああ良かった。お久しぶり蓉子さん、清子です』
「え、清子さまですか?」
『ごめんなさいね。突然お電話なんかさしあげちゃって』
ホントだ。じゃなくて。小笠原と聞いても祥子の名前すら浮かばなかった自分は、かなりリリアンに毒されていると思う。
清子小母さまはそれからゆっくり時候の挨拶なんかをして、本題を告げてくれた。
『祥子さんがね、家出しちゃって』
「…家出、ですか?」
祥子と家出。なんというかあんまり関連のなさそうな単語に思えて蓉子は少し混乱した。でも時間が経つにつれじわじわと事の重大さが認識できるようになってきた。それってかなりの一大事なのではないだろうか。
『実はここ一週間ばかり家に戻ってこないのよ』
清子小母さまの声はおっとりしていて、心底困っているのだろうけどそうは聞こえないという欠点がある。とはいっても慌てふためいてなにを言ってるかすらわからないよりは遙かにいいに違いないが。
(そう言えば)
蓉子はここ最近、学校で祥子と会っていなかった事を思い出した。ということは学校も休んでいるのだろうか。それを聞くと清子小母さまは優雅にため息を吐かれた。
『学校はね。通ってるみたいなの』
「はあ」
家出中なのにそれはまた律儀なことだ。祥子らしいといえば祥子らしいが。
清子小母さまは言う。
『家出といっても行き先はわかっているのよ。でも祥子さん強情でなかなか家に戻ろうとしないの。どうしてかしら?』
「……」
いや、それを聞かれても蓉子としては答えようがない。
「それで私はなにをすればいいのでしょう」
電話してきたって事はそういうことなんだろうな、と思いながら蓉子は言った。このままだと清子小母さまの泣き言を延々と聞かされるハメになる。最初の小笠原家訪問からもう幾度も会っている清子小母さまだから、ひととなりはこれでも一応把握しているつもりだ。
『申し訳ないのだけど蓉子さんからとりあえず家に戻るよう説得して頂けないかしら。私たちではもうどうしようもなくて』
「それは構いませんけど……。あの、祥子の家出の理由を聞いてもよろしいですか?」
『ええ、それなんだけど――』
清子小母さまは困ったようにため息なんか吐いていらっしゃる。それでまあなんとなく答えの想像はついた。
「私たちには皆目見当がつかなくて」
そうだろう、そうだろう。
一般的に家出というのは居場所がなくなったか、居づらくなったか、親に反発して行うものだ。祥子の場合は多分家族に対する不満からだろう。あの娘のことだから口に出せばいいことをずっと溜め込んでいたに違いない。なにが切っ掛けになったか知らないがそれがとうとう爆発したということなのだろう。
「困ったなあ」
『そう困ってるのよ』
清子小母さまの長閑な声。
これは前途多難そうだと蓉子は思った。
§
次の日。
「――家出をしてるってホント?」
祥子の教室に行って彼女を呼び出してもらった蓉子は、祥子を引っ張ってひとけのない場所へ着いた早々そう口にした。
あまり人通りの多くない廊下の片隅は隙間風でも吹いてくるかのよう。コンクリートの壁に手を付くと氷のような冷たさが伝わってきて、蓉子は慌てて指先を引っ込めた。
「小母さまが心配していらしたわ」
「……」
祥子は黙ったまま答えない。
蓉子と目を合わせようともせず、廊下の窓から見える中庭に顔を向けたままだ。
中庭の色褪せた芝の絨毯がとても寒々しい。
「目を逸らしてるっことは、悪いことをしているって自覚が少しはある証拠よね?」
「……私は悪いことなんてしてません」
祥子はようやく口を開いた。
「そうね、あなたのことだから色々考えてのことでしょうし」
無言だった。
蓉子は内心でため息を吐くと単刀直入に聞くことにした。
「原因はなに?」
「……」
祥子は答えない。
「家出をしたということは、嫌なことから逃げ出したってことでしょう。いったいなにが気に入らなかったの?」
「…気に入るとか気に入らないとかじゃありません」
それだけ口にする。
「融小父さまや清子小母さまに理解してもらいたいんでしょう。だったらちゃんとお話しすればいいじゃない。話すことさえ厭うっていたら、問題の解決なんて図れないわよ」
「お父さまやお母さまには関係ありません」
「じゃあ、お祖父さま?」
祥子は首を横に振る。
「じゃあなんなの? なにが嫌なの?」
「……」
「言わないってことはね、祥子。自分のしていることは、ただ我が儘を喚き散らしてるのと変わらないって認めているのとおなじことよ。違う?」
思い通りにならないから。
「――放っておいてください」
祥子はキッと蓉子を睨み付けた。
ようやく顔を合わせる気になってくれたらしい。しかし声は上擦っていた。
「蓉子さまに私のなにがわかるって言うんです!?」
「分からないわよ」
蓉子はキッパリと言う。
「私はひとの心を覗く銀の鏡なんて都合の良いもの持っていないもの。あなたの心の中なんて私には全然わからないわ」
「でしたらっ」
言いかけた祥子を「でもね」と蓉子は遮る。
「私はあなたを放ってなんておけないわ」
「…なぜです? どうしてそんなに私に構うんです? お母さまに頼まれたからですか?」
「祥子」
祥子の声は泣きそうなぐらい細かった。
蓉子はそうじゃないと言い聞かせるように彼女の名を呼んだ。
「頼まれたっていうのはもちろんだけど、でもあなたに逢いに来たのは私がそう望んだからよ。あなたと逢って話がしたいって思ったから」
「……私には話す事なんてありません」
「話してくれないと私があなたの力になれないわ」
「薄っぺらい同情なんていりません。これは私だけの問題です。他人の力なんて必要ない――」
祥子はなにかに気付いたように言葉を止めた。
ほら、と蓉子は笑う。
「あなたちゃんと分かってるじゃない。自分の心の問題だって。それだけの理解力があるんだから解決方法だってきっと気付いてるんでしょう? でもあなたはその先にあるものに怯えて逃げ回っているに過ぎないのよ」
「あなたには関係ないっ」
パン、と軽い音が周囲に響いた。
「――あ」
蓉子は痺れの残った右手をぐっと握った。打たれた左頬を押さえた祥子が蓉子を睨み付ける。
手のひらにじわじわと痛みが広がって、蓉子に自分のしでかしたことを教える。
「ご、ごめんなさい」
祥子の蓉子を見る目は冷たい。
「叩いてしまったことは謝るわ。でも私にぐらい話してくれてもいいじゃない」
「……話す必要がありません」
「まだそんなことを」
「お願い――」
祥子の唇から小さく洩れる言葉があった。
蓉子はハッと目を見開いた。祥子が、あの小笠原祥子が涙を流している。
「私のことは放っておいてっ」
「祥子!」
言い置いて祥子は身を翻した。呼び止めようとした蓉子の手先からするりと抜ける。
泣かせてしまったという忸怩たる思いを抱きながらも、蓉子は廊下を足早に去るその後ろ姿を見えなくなるまで追った。
(放っておいて、か)
そんなことが出来るなら最初から祥子に構おうとなんて思わなかった。祥子と出逢ったことをいまさらなかったことになんて出来はしなかった。それぐらいは祥子の存在というものが蓉子の心を占めていた。不安定なガラスの心。祥子のそんな危うさすら愛しいものと思っていたのに。
蓉子は自分自身の不甲斐なさを情けなく思う。
「なにやってるんだ、私」
足元にまとわりつく冷気が蓉子の心さえ凍えさせるようだった。
〔←BACK〕 〔↑INDEX〕 〔NEXT→〕