【リリアン女学園高等部】 



 蓉子が保健室に駆けつけると、白いベッドのうえで祥子が穏やかな寝息を立てていた。
 ただ倒れたとしか聞かなかったのでかなり悪い状態を覚悟しつつ来たのだが、別に苦しそうでもなかったのでちょっとだけホッとした。
 そんな蓉子を養護教諭の保科栄子先生がちょいちょいと手招いた。
 
「先生、祥子は?」
「かなり疲れが溜まっていたようね。たぶん軽度の貧血だと思うわ。アレも来てたみたいだし」
「そうですか」

 ますます胸をなで下ろした。状況はそう悪くもないらしい。
 
「あと睡眠不足もあったみたい」
「――」

 やっぱり、と蓉子は思った。かなりタイトなスケジュールで過ごしている祥子だ。毎日、夜遅くまでお稽古ごとを習い、自宅に戻れば宿題もせねばならない。そのうえ煩雑な山百合会の仕事も持ち帰っていたのだ。それらを全てこなす時間を捻出するとしたら睡眠時間を削るしかない。
 
「食欲の方はどうだったのかしら?」
「あまり食べていませんでした。私も気を付けてはいたんですが……」
「そ。気付いていたのね」
「はい」

 忸怩たる思いで蓉子は頷いた。
 
「お家の方にはさっき連絡しておいたわ。お迎えのひとが来てくれるみたい。念のため病院にも行くように伝えておいたけど、まあこの調子だと起きたらもう元気だと思うわ」
「すみません。お手数を掛けまして」
 
 あのー、と保健室の扉が開いて、数人の女生徒が顔を覗かせた。
 保科先生が「どうしたの?」と聞くと、彼女たちは持ってきた鞄と着替えを差し出した。
 
「祥子さんのです。もうHRも終わったので届けに来ました」
「あら、ごめんなさいね。ありがとう」
 
 祥子の持ち物を受け取って、蓉子は礼を言う。
 クラスメイトたちが心配そうな顔をしていたので、軽い貧血だと伝えて安心してもらった。もう一度お礼を述べて彼女たちを送り出す。振り返ると保科先生が可笑しそうに肩を震わせていた。
 
「なんです?」
「いえね。さすがあしらい方を心得てるな、って思って。来年の紅薔薇さまは安泰ね」
「はぁ…」

 なんとも答えようがなかったので、蓉子は曖昧な頷きを返しておいた。
 
「さて、私はこれから会議があるんだけど、彼女のこと頼んでもいい?」
「あ、はい。お迎えが来るまで一緒にいます」
「そう。じゃあお願いね」
 
 保科先生はそう言い残すと、山のような書類を抱えて出て行った。
 
 
 
 §
 
 
 
「ふぅ」
 
 意味のない吐息を吐くと蓉子はベッドの傍にあった丸椅子に腰を下ろした。眠っている祥子はまだ目覚めるような素振りはない。
 蓉子はなにもすることもなくて保健室の天井を見上げ、二本ずつ並んでいる電灯の数を数えたりした。意味のない行動。十畳かそこらの広さに十二本の灯りが整然と並んでいた。
 窓に目を向けるとランニングをしている生徒の一団が見えた。早くも部活動が始まっているらしい。リリアンには立派な校庭があるが、そこを利用できるクラブは決まっている。準備体操代わりに走るだけならわざわざトラックを使う必要はないので、ああやって校内の散策路を使うクラブもある。令の所属する剣道部もランニングのときは体育館のまわりを走っていたはずだ。

 ランニングの一団が走り去ると、今度は和弓を抱えた弓道部員たちが歩いていく。
 そういえば弓道部は弓道場に併設されていた部室が雨漏りのせいで使えなくなっていたのだった。来週には工事が入る予定だが、それまでどこかの教室を部室代わりにせねばならない。梅雨が来る前に工事が終わってくれれば良いが、と蓉子は思う。

 それにしても。

 ただ静かに座っているというのは蓉子には結構辛いことであるらしい。窓から見えることひとつをとっても山百合会の仕事と結びつけて考える自分に苦笑する。
 無為に時間を過ごすことを良しとしない性格。何かをしていないと落ち着かないというのは貧乏性と言うべきだろうか。もしここに文庫本の一冊でもあれば蓉子はすぐページをめくっていただろう。どんな本であれ読書は嫌いではないし、第一本を読んでいる間は無為とは無縁でいられるから。
 
「ん…」
 
 ベッドから祥子の呻き声が聞こえた。蓉子は慌ててそちらに目を向ける。まだ目覚めてはいないが、もうそろそろしたら起きるかも知れない。ふと蓉子は、祥子の自宅から迎えが来る予定なのを思い出した。
 
「えっと、連絡したのがここに運ばれてすぐだったとしたら、祥子の自宅からお迎えが着くのは……あと二十分ぐらいかしら」

 保健室の壁掛け時計を見上げながら考える。渋滞していなければそれぐらいだろう。
 誰が来るのだろう。もしかして清子小母さまだろうか。それともお手伝いさんの誰かとか――。
 
「お姉さま……」
 
 呼ばれて蓉子は我に返った。振り向くと祥子がうっすらと目を開けている。
 
「起きたの、祥子」

 こくりと祥子は頷いた。
 しかし目線がぼーっと頼りないところをみると、どうやらまだ本調子とはいかないようだ。
 蓉子は手を伸ばして祥子の額に触れてみた。すこしだけ汗ばんだ、でもヒンヤリとした感触が手のひらに伝わってくる。祥子はくすぐったそうに目を細めた。
 
「気持ちいい…」
「あなたがいいなら、しばらくこうしていてあげる」
 
 優しい沈黙が流れる。保健室には校内の喧噪はほとんど届いてこない。まるでこの部屋だけ別の世界に飛ばされたかのような錯覚を覚えて蓉子は小さく笑った。
 
「…なんです?」
「なんでもない。具合はどう?」
「だいぶ良くなってきました。それより――ごめんなさい、お姉さま」

 瞳を伏せる祥子。蓉子は「なんで謝るの」って笑いかける。

「またお姉さまにご迷惑を」
「そんなこと。久々にお姉さまらしいことが出来たから私は嬉しいわよ?」
「お姉さま…」

 いいの、と蓉子は首を振る。

「ごめんね、祥子」
「お姉さま?」
「あなたに無理をさせたのはきっと私の所為ね」

 祥子が何か言おうとするのを蓉子は優しく押さえた。

「ねえ、あなたにとって一番大事なことってなにかしら」
「大事なこと、ですか?」
「そう。これだけは大事にしたいって思えるもの。それはモノでも良いしひとでも良い、もちろん形のないものでも構わない。どう祥子。あなたにそんなもの、ある? なくしたくないと思える大事なもの」

 沈黙。祥子は蓉子を窺うように見て、考えているようだった。
 やがて蓉子の手のひらの下で、ふるふると祥子が首を横に振った。

「――わかりません」
「よかった。“ない”って言われたらどうしようかと思った」

 蓉子は笑う。

「お姉さまにとっての大事なものってなんですか?」
「あなたは言わないのに、私には聞くの?」
「あ、ごめんなさい…」
「いいわ。聞かせてあげる。私にとっていま一番大事なのはあなた。お姉さまには悪いけど比べられないくらいあなたが大事」
「お姉さま」

 祥子の顔が嬉しそうに綻ぶ。
 しかし、それも蓉子が次の言葉を口にするまでだった。笑いを収めた蓉子の声はいつになく真剣な響きを帯びる。

「でもだからこそ、やっぱりこのままだといけないと思うの」
「え?」
 
 祥子はなにを言われたかわからない、という感じで蓉子を見上げる。
 ちょうどその時、保健室の内線が鳴った。保科先生がいないので、蓉子が電話を取る。
 
「もしもし?」
『あ、水野さん』
 
 掛けてきた相手は保科先生だった。
 
『校門に小笠原さんのお迎えが来たらしいの。彼女、目を覚ました?』
「あ、はい。起きてます」
『調子はどう? 頭が痛いとか、言ってない?』
「ちょっと待って下さい」

 蓉子は受話器を離すと、祥子に身体の様子を尋ねた。頭は痛くないし、だいぶ目も覚めたから起きあがれると祥子は答えた。蓉子はそれを保科先生に伝える。

『取り敢えずは心配なさそうね。じゃあ水野さん、悪いんだけど小笠原さんを校門まで送ってくれないかしら。お迎えのひとがきてるから』
「わかりました」
『お願いね。あ、保健室の鍵は開けたままで良いから』
「はい」

 答えて蓉子は受話器を戻した。

「祥子、校門にお迎えが来てるから行きましょう」
「あ、はい」

 祥子はベッドから起きあがった。まだ体操服のままだったので、クラスメイトが持ってきてくれた制服に着替える。女同士とはいえ着替えを見せるのはそれなりに恥ずかしいらしく、祥子は手早く衣服を取り替えた。
 乱れたベッドを一通り調えて、忘れ物がないか確認したあと、ふたりは鞄を持って保健室をあとにした。

 夕方の気配が漂いはじめた廊下を黙ったまま歩く。リズムの違う足音が遠くに近くに響いて、まるで追いかけられているかのようだ。
 祥子と昇降口で一旦別れ、靴を履き替えると、ふたりはリリアンの校舎から外に出た。

「ね、祥子」

 銀杏並木を半分ほど来たところで、蓉子はようやく口を開いた。言うべきか言わざるべきかずっと悩んでいたことだ。蓉子は目の前に延びる影を見つめながら言葉を繋ぐ。

「まだ、続けるつもり?」

 意識して主語を省略した物言いだったが、祥子はその指し示すものを正確に理解できたはずだった。

「今日のことで私は決めたわよ、祥子」
「……お姉さま」
「習い事をやめるか、山百合会をやめるか。――選んで」

 隣で祥子が息を呑むのがわかった。
 キツイ言い方だと自覚はしていた。祥子にとってそれは針のように鋭く突き刺さっただろう。でもどんな言い方をしたとて蓉子の求めるものは変わりはしない。選択肢はもうふたつしか残されていないのだ。

 暫くのあいだ祥子は無言だった。
 銀杏並木が終わり、マリア様が見える頃になってようやく彼女は口を開いた。

「習い事は辞められません」

 それは予想された言葉だった。
 だから蓉子は次の台詞を口にする。しないわけにはいかなかった。

「じゃあ、山百合会を辞める?」

 蓉子が聞くと祥子はわずかに身を強張らせたようだった。
 マリア様のまえで立ち止まり、祥子は固い眼差しで蓉子を見据える。

「それは――ロザリオを返せと、そういうことですか?」

 祥子の瞳が儚く揺れる。

「私はもうお姉さまには必要ない……と」
「そうじゃなくて」

 苦笑しながら蓉子は首を横に振った。たしかに言葉尻をとらえるならばそういう解釈も成り立つだろう。しかし蓉子はそういうことを言いたいのではないのだ。

「このままだとあなたは遠からず潰れてしまう。あなたは上手くやっているつもりかも知れないけど、私からみたら朽ちた吊り橋を渡っているのとおなじよ。危なっかしくてたまらないわ」
「……」
「黙ってるってことは一応自覚はあるみたいね」

 まあ今日みたいに倒れれば自覚してなくとも判ることはあるだろう。むしろ倒れたからこそ蓉子の言葉には説得力が備わったとも言える。自分の身体のことは自身が一番よく判ると言うし――。
 マリア様へのお祈りを終えて、ふたりは再び向かい合った。正面から覗き込めば祥子の瞳が揺れているのがよく判る。彼女はきっと色々なことを考えているのだろう。
 
「あのね。お稽古ごとをやめなさいって言っても、全部やめなさいと言うわけではないのよ。休日とか、余暇で出来る分だけ残せばいいじゃない」
「――それも出来ません」
「何故?」
 
 祥子は答えなかった。
 
(あの時みたいにもう少しちゃんと話してくれれば力になれるのに)

 じりじりと身を焼く衝動に蓉子は耐える。
 理由はある。祥子にはきっと理由があるのだ。蓉子にはどんなに馬鹿馬鹿しいものでも、祥子にとってそれは身体を損なうほど重要なことなのだ。比べるとかそういう次元の問題ではない。

「少し、考えさせて下さいませんか」

 だからそう言った祥子に、蓉子は「これが最後よ」とだけ告げて頷くことにした。
 なんにせよ、祥子が納得しない限り、事態は好転しない。
 
「はぁ――」
 
 ため息。
 やっぱり今日は憂鬱な日だった。









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