【リリアン女学園中等部】

 
 
 自宅を出て、電車を何本か乗り継ぎ、辿り着いた駅からタクシーを拾う。
 知らない風景が彼女のまわりには広がっていて、少しだけ心に怯みを覚えた。歩いているひとびとの中に自分と同年代の少女は見当たらない。
 
(家出とかと間違えられたらどうしようか)
 
 蓉子といえどもまだ中学生。知らない場所にひとりで行くとなると心細くもなって愚にもつかないことを考えてしまったりする。
 タクシーに乗り込み「どちらへ?」と聞かれて、清子小母さまから教えられた病院の名前を告げると運転手はなにも詮索することなく車を発進させた。
 
 駅構内の賑わいに比して結構静かな土地だった。
 広い道路なのに対向車もぽつぽつとしかこない。県境に近いとはいえ都心までの距離を考えるとぎりぎりベッドタウンと呼んでもいいだろう。人口もそれなりにあるはずなのに出歩いている人はあまりいなかった。日曜だからみんなまだ寝ているのかも知れないなんて思う。
 太陽は空の一番高いところから柔らかな陽射しを降り注いでいた。
 
 蓉子の住む住宅街ではあまりお目にかかれない田んぼや畑が住宅に混じってそちらこちらに点在していた。珍しい風景に目をとられていると急に車が減速した。何事かとフロントウインドウに目を向ければ、自転車の荷台に鍬を括り付けたお婆さんがよろよろ車道を横切るところだった。タクシーの運転手は怒るでもなく、ゆっくりとお婆さんが渡りきるのを待つ。長閑だなぁ、と蓉子は思う。田舎と都会が混じり合った不思議な佇まいを蓉子は気に入った。

 窓を流れるそんな風景を見ながらタクシーに揺られること二十分と少々。「もうすぐ着きますよ」と運転手が言った。はい、と答えたあと、ふと道端の植木にちいさな赤い花が鈴なりに咲いているのが目に入る。綺麗だな、と思ったところで蓉子は己の迂闊さに気付いた。
 慌てて身を乗り出して運転手さんに尋ねる。

「あの、すみません。この近くにお花屋さんはありませんか」

 タクシーはまわりを田んぼに囲まれた長閑な農道を走っていた。



 §



 受付に面会の断りを入れると、若い看護婦さんが案内してくれた。古さは隠せないものの手入れの行き届いた病院は街から離れているだけあってかなり静かだ。待合室には数人の患者とその家族らしいひとたちが談笑していた。案内されて廊下を進んでいくとやがて二階へと上る階段が見えてきた。病室は基本的に二階にあるのだと教えてもらい、そこをのぼる。
 ふと気付いて看護婦さんに尋ねてみた。

「あの、ここって総合病院なんですか?」

 タクシーで病院の門をくぐったときから疑問に思っていたことだ。木造建築のこの建物は病院と呼ぶのがやや躊躇われる雰囲気だった。映画などでみた診療所というほうが相応しい佇まいである。それに普通の病院ならみかけるはずの「〜内科」とか「〜外科」という表示がどこにもなかった。

「あなた、ここに来たのははじめて?」
「はい」

 隣を歩く看護婦さんは嫌な顔ひとつせず蓉子の質問に答えてくれた。
 
「ここはね。すごく簡単に説明するとホスピスなの」
「ホスピス?」
 
 その単語は蓉子の知識の中には見当たらなかった。
 看護婦さんが簡単に説明してくれたことを要約すると、ホスピスとは治癒をめざした医療ではなく、症状のコントロールに力を入れ、患者さんたちができるだけ快適に日常を過ごせるような環境を整えていくことなのだという。
 あとで調べて知ったことだが、語源はラテン語のホスピティウムという言葉からきているらしい。温かいもてなしとか歓待、宿所、宿屋という意味のある言葉で英語辞典だと、巡礼者、旅人、他国者、貧困者、病人たちを休ませ、歓待する家と訳されてあった。
 
「まあ、いまここで説明できるのはそれくらいね。もっと詳しいことが知りたかったらあとでパンフレットをあげるから図書館とかで調べてみてね」

 蓉子が頷くと、看護婦さんはにこりと笑った。
 やがて目的の部屋に辿り着いたのか「ここよ」といって看護婦さんはドアをノックした。

「失礼します。お客さんですよ」

 看護婦さんのあとに付いて個室へと足を踏み入れた。小さいながらもどこか家庭的な温もりのあるその部屋には、備え付けのベッドがあり、上半身を起こしている優しそうに微笑んでいるおばあさまと、見知った少女が談笑しているところだった。

「こんにちは」

 リリアンではない場所で「ごきげんよう」もなんだろうと思ってごく普通の挨拶を蓉子は口にした。じゃあね、と言って戻っていく看護婦さんにも頭を下げる。

「…蓉子さま」

 振り向くと少女が驚いた表情を隠さず椅子から立ちあがっていた。
 おばあさまがそんな祥子と蓉子を見比べて、にこりと笑った。

「いらっしゃい。祥子のお友達?」
「日頃、良くして頂いている学校の先輩です。水野蓉子さま」

 祥子が紹介してくれた。軽く会釈する。

「あら、そうなの。祥子がお世話になってます。ありがとう。わざわざこんなところにお見舞いにまで来てくれて」
「いえこちらこそお世話になってまして――あのこれ、どんなものがお好きなのか存じませんでしたのでまとまりがなくなってしまったんですけれど…」

 蓉子は持っていた花束を差し出した。タクシーの運転手さんが連れて行ってくれた花屋さんはイマイチ品揃えが良くなくて、あり合わせで作ってもらった花束はあまり統一感というものがなかった。色もとにかく香りも強い。でもお祖母さまはことのほか喜んでくれた。花束へのというより蓉子の心遣いとお行儀に感心したのだろう。

「あらまあまあ、気を使わなくても良かったのに」

 花束を受け取ったお祖母さまは、それを祥子に預けると活けてくれるよう頼んだ。
 空いていた花瓶と花束を抱えた祥子が出て行くと、お祖母さまが近くに来てくれるよう蓉子を手招きした。蓉子はお祖母さまに勧められるまま、ベッド脇の丸椅子に腰を下ろす。
 
「あなたのことは祥子から色々聞かされているわ」
「え?」
「お節介な先輩がいてなにかと世話を焼いてくれるって」

 蓉子はどんな表情をすればいいのかわからなくて曖昧に笑った。祥子はお祖母さまにいったいなにを吹き込んだのだろうか。しかしお祖母さまはからかったわけではないようだった。穏やかな瞳で蓉子を真っ直ぐに見てくれている。
 
「あの子、とても嬉しそうにあなたのことを話すのよ。ほんとにすごくすごく楽しそうに。あの娘が学校の話をしてくれたことなんてこの間まで一度もなかったのに」

 蓉子は何も言えなくて黙るしかなかった。
 
「あなたのおかげなのね。あの娘が笑ってくれるのは。ありがとう」
「そんな…」
「謙遜しなくてもいいの。ほんとのことなのだから」
 
 お祖母さまの優しい眼差しに蓉子は赤面する。
 
「それで、今日のご来訪の目的はなに? たぶん祥子のことだと思うのだけど」
「はい」
 
 祥子がいないのを幸いにお祖母さまに聞いてみることにする。話せないといわれたら仕方ないが、お祖母さまはきっと知っているだろう。それが分かる程度には祥子を見てきたつもりでもある。

「祥子がどうして家に帰ろうとしないのか、その理由をご存じですか?」

 そうねぇ、とお祖母さまは少し考え込まれた。

「――直接は聞いていないし、話そうともしないけど、なんとなくなら見当はつくわね」
「お聞きしても良いですか?」
「そうね…」

 呟いて、お祖母さまは蓉子の瞳を覗き込んだ。

「ちょっと抽象的なお話になるかもしれないけどいいかしら」

 良いも悪いもない。いまのところ蓉子がすがれる藁はお祖母さましかいない。はい、と蓉子は返事をした。
 お祖母さまは、良く晴れた空に目を向けられてから「まとまりのないお話だけれど」と断って、ぽつぽつと話をしてくれた。

「祥子は一人娘だったから、両親やそのまわりからたくさんの愛情を注がれて育ったの。望むものはなんでも与えてもらったし、祥子がしてみたいと言ったことはひととおり習わせもしたわ。子供に注ぐ愛情ってお金で量れるものではないけど、ひとつの目安ではあるでしょ。だから祥子の両親たちは祥子に良かれと思うものはなんでもしてきたの。――でもいま思えばそういう見方そのものが間違いだったのかも知れないわね」
「間違い、ですか?」
「そう、あの子がね。本当に望むものは与えてもらえなかったの」
「本当に、望むもの」

 蓉子は繰り返す。
 そうよ。お祖母さまは深く頷かれた。

「例えばあなたは祥子と同じ立場を親御さんに望めるかしら?」
「同じ立場?」

 なんのことかわからない。

「そう。祥子のようなお嬢さまになることを望むの。それは叶えられると思う?」
「それは――無理だと思います」

 そうでしょう、というようにお祖母さまは苦笑する。

「でもね。あの子はそれを望んでいるの」
「……」
「普通の、例えばあなたみたいな家庭の娘として生きることを」
「そんなの」

 無理だ。
 言おうとして蓉子は口籠もった。
 
(そんなの叶うはずがない……)
 
 絶望感が蓉子を押しつぶすかのように広がっていく。
 生まれてくる場所を選べなかったことが彼女の不幸なのだとしたら、そこに救いなどあろうはずがない。水野蓉子が水野蓉子を辞められないのと同じように、祥子は小笠原祥子を辞めることなんてできないのだから。
 
(それが祥子の悩みなの?)
 
 じわじわと失望に似た思いが胸に込み上げてくる。本当にそうならそれは蓉子なんかの力が及ぶところではない。
 不意に蓉子は病室に漂ってきた香りに気付いた。それは蓉子の持参した花たちの強い匂いだった。姿は見えないが近くに祥子が居るようだった。もしかして聞いていたのだろうか。
 
「ねえ蓉子さん」
 
 お祖母さまの優しげな瞳で蓉子に笑いかける。
 信頼と期待の色がそこにはあった。

「あなたに祥子のことお願いしても良いかしら。あなたならあの娘の凍ってしまった心を溶かせるかもしれない。たとえそれが無理でも切っ掛けのひとつにはなってもらいたいの。勝手なお願いだとは思うのだけど、あなたなら託せそうな気がするから」
「――私に、できることでしたら」
「あなたなら大丈夫。私が保障するわ。こんな頼りないお祖母ちゃんの頼りない保障で申し訳ないけれど」

 お祖母さまは静かに笑われた。
 そこに少しだけ含まれた苦さの微粒子の存在を感じて「そんなことはない」と蓉子は首を振った。お祖母さまはきっと祥子にとって一番の理解者なのだ。そうでなければ祥子が家出先としてここを選ぶはずがなかった。

「お願いね。蓉子さん」
「――はい」

 頼まれなくとも蓉子は祥子を見放すつもりはなかった。お祖母さまの期待はもしかしたら蓉子の手に余るのかもしれない。でもそれが祥子の為になるのなら、蓉子はやり遂げて見せようと思った。たとえどれだけの時間が掛かっても。必ず。

「なんのお話でしたの?」

 祥子が花瓶を抱えて戻ってきた。なに喰わぬ顔をしているということは聞いていたことは黙っているつもりらしい。花瓶に活けられた花たちは祥子の手によって美しく咲き誇っている。統一感のなさは抽象化されることで互いをうまく引き立て役としているようだった。

「あなたの悪口を言っていたの」
「ええっ」

 お祖母さまはにこやかに言う。それでお祖母さまも祥子が聞いていたことに気付いていたんだと蓉子は知った。言われた方の祥子は頬を膨らませてちょっと嫌そうな顔をしている。

「蓉子さんも大変でしょう。この子の相手をするのは」
「ええ、それはもう」
「蓉子さまっ」
「ほんと我が儘で。お祖母ちゃんの言う事なんて聞いてくれないから。あなたが叱ってあげて下さいね」
「わかりました。びしびしと叱ることにします」
「蓉子さまっ。お祖母さまったら、もうっ」

 祥子のあきらかに不満そうな声。
 でもすぐに朗らかな笑い声がみっつ、病室に響いたのだった。



 §



 三人の歓談は蓉子が過ごせる時間ぎりぎりまで絶えることはなかった。
 名残惜しさを隠せないままお祖母さまに辞去を告げ、蓉子は祥子を伴って病室を出た。あまりひとけのない廊下を黙ったまま歩く。階段を降りて病院の待合室に来たとき、祥子が口を開いた。

「どうしてここに私がいるとわかったのですか?」
「清子小母さまに教えて頂いたの」

 淀みなく蓉子は答えた。それで納得したのか祥子はそれ以上聞かなかった。
 電話でタクシーを呼んだあと、病院の玄関を出て陽の当たる中庭をちょっと歩く。陽射しのわりに気温は低かったけれどなんとなく病院の中では話しづらかったのだ。煉瓦で舗装された中庭の散歩道は落ち葉が重なっていて、歩くたびにかさかさと音を立てる。散歩道を囲む木々には楓やもみじが多い。もっと早く訪れていたら紅葉が綺麗だったのかも知れない。そんなことを思う。
 五分ほど歩いて、中庭を一周した頃、蓉子は少しだけ躊躇ってから尋ねた。

「お祖母さまはかなりお悪いのかしら?」

 祥子は首を振ってその長い髪を揺らした。

「検査入院みたいなものだって、お医者さまは言っていました。二週間ぐらいで退院されるみたいです。なにもなければですけど」
「そうなの」

 それならよかった。蓉子は胸に手を当ててほっとしたように息をついた。
 祥子が言うには、この病院の理事長が小笠原の親戚だったから、その伝で入院したということだった。
 
「私も聞きたいことがあります」
「いいわよ。なに?」
「なぜ蓉子さまはこんなところまで来られたのです?」
「あなたに逢いたかったから」
「私に、ですか?」

 わざわざこんなところにまで、と祥子の瞳は言っていた。

「清子小母さまにお願いされたっていうのもあるけど……。私自身があなたを放ってはおけなかったの。一刻も早くあなたに逢って話がしたかったの」
「私には話すことなんてありません…」
「ねえ、祥子」

 蓉子は祥子の片腕を掴んで正面を向かせた。ふたりの隙間を一枚の落葉が通り過ぎる。自分から目を逸らそうとする祥子をでも逸らさせない強さで見つめる。

「あなたが悩んでいることに、私は力になれない?」

 なれないんだろうな、と思いつつ聞く。

「――無理です」
「ハッキリ言うのね」

 蓉子は苦笑した。祥子がそう口にするであろう事は想像のうちにあった。祥子は自分が不利であると気付いたときこうやって殻に閉じこもる。祥子は傷つくのが怖いのだ。自分の論理では他人に反撃しえないと認めてしまっているから。
 蓉子は言う。

「私だって家庭の事情にまで口を挟む気はないわ。でもね――」

 一旦言葉を切り祥子を見上げる。
 
「言いたいことはあるの」
「……」
「逃げ回らないで自分の気持ちをハッキリとおっしゃい。あなたは自分の意志をしっかり持っているのに、時々、妙に臆病になる」

 あなた、と蓉子は祥子に笑いかける。

「嫌われたくない、と思っているのでしょう?」

 ピクリ、と祥子の腕が震え蓉子にそれを伝えた。
 触れあったままの二の腕から祥子の動揺が蓉子には手に取るように判る。

「例えば私に嫌われるのは平気でも、彩子お祖母さまに嫌われるのはあなた耐えられないでしょう。お祖父さまや融小父さま、清子小母さまでもそう。もしかしたらそれ以外にも誰かいるのかもしれないけど」

 祥子は答えない。

「あなたが誰から逃げ回っていて、なにを悩んでいるのか、私は知らない。悔しいけれど教えてもらってもきっと私では役に立たない。私ではあなたを助けてはあげられない……」

 言いながら突然込み上げてきたもので蓉子の喉が震えた。理由は判らなかった。
 いや判らないフリをしたかったのかも知れない。祥子はなにも言わないのに、蓉子には彼女が誰から逃げ回っているのか、なんとなく察してしまったから。
 祥子の二の腕を掴んだまま蓉子は顔を伏せる。
 
「ちょっと、ごめん…」
 
 自分で口にしながらあまりの口惜しさに悲しくなった。でもここで涙を見せるわけにはいかない。蓉子は唇を噛み締めて溢れ出しそうな涙に必死に耐えた。

「……蓉子さま」
「だから――だから自分で乗り越えなさい。その方法だったら、教えてあげられるから」
「方法、ですか?」
「そうよ」

 蓉子は顔をあげて祥子から手を離した。
 涙は引っ込んだが眼が赤いのは勘弁してもらおう。

「悩んだあとの答えなんて、本当はひとつしかないの」
「ひとつ、ですか?」
「そう。どんなに悩んでもどんなに苦しくても、答えはたったひとつしかないわ」

 それは、と祥子が聞く。
 蓉子は残された余裕を振り絞って笑ってみせた。

「歩き出すこと」

 風が、ふたりの間を吹き抜ける。
 祥子の長い髪がその風に攫われて緩やかに踊った。

「迷ったままでもいい。辛くて前を向けなくても、答えが出ていなくてもいいの。それでも前に進めばなにかが変わる。変わっていくわ――」
「……」
「その場所に留まっていてもなにも変わらないこと、あなた分かっているでしょう? 傷つくかも知れない。壊れてしまうものだってあるかもしれない。でも歩き出さないと次の場所へは永遠に辿り着かないわ」
「蓉子さま…」

 祥子の呟きに、蓉子はいつのまにか頭が熱くなっていた事を自覚する。これじゃまるで聖と言い合いをしたときと同じじゃないか。蓉子は自己嫌悪に陥り自嘲気味に笑った。こんな自分がひとのことをどうこう言おうなんて十年は早い。

「やれやれ、私のお節介も堂に入ってきたものだわ。こんなのあなたにとって迷惑にしかならないって分かっているのに……」
「そんなこと」
「いいのよ。慰めてくれなくても。あなたのことになると、どうしてこう私は馬鹿になるのかしら。自分でも不思議で堪らない」

 くくく、と喉から笑いが洩れた。でもそんな蓉子を祥子が悲しそうに見ていたからそれ以上情けない顔を見せるわけにはいかなかった。おおきく息を吸う。山の麓にあるこの病院は空気も素晴らしく澄んでいた。それだけで蓉子の中に溜まっていた澱のようなものが四散する。
 祥子にはみっともないところを見せてしまったな、と恥ずかしく思った。

「蓉子さま」

 優しい声が蓉子に届いた。
 それだけで心がすっと落ち着く。この安らぎはいったいどこからくるのだろう。

「――いつか話してくれる。あなたの悩みを?」
「そうですね。いつか時が来たなら」

 祥子はそういって頷いてくれた。
 蓉子にはそれで充分だった。お祖母さまの期待には応えられなかったけれど、少なくとも祥子は前に進もうと思ってくれたのだと信じたかった。

「あなたが納得できたときでいいわ。家に帰りなさい。みんな心配してるから」
「…はい」

 はにかんだ表情は、少しぎこちなかったけれど、祥子はようやく本当の笑顔を見せてくれた。それだけで蓉子はここに来た甲斐があったと思った。



 §



 迎えに来たタクシーに乗り込み、祥子に別れを告げる。

「じゃあね」
「はい」

 それだけのやり取りだったけど蓉子は自分の中に満たされるものがあったのを感じることができた。そしてそれは祥子も同じなのだろうと思った。走り出したタクシーのなかから病院を振り返る。玄関の先にはまだ祥子の姿があって小さく手を振っていてくれた。やがてその姿も塀の向こうに隠れて見えなくなる。蓉子は席に座り直して、流れる風景に目を向けた。

 結局、祥子の悩みがなんなのか、その時の蓉子は知ることはなかった。
 漠然と恋愛とか男性に関することではないだろうかと思ったが、そう考えてしまったことで腰が引けたのかもしれない。とても情けないとは思うけれど。

(だってしょうがないじゃない)

 蓉子は心の中だけで呟く。
 ちょっと拗ねた調子は隠すことができなかった。なんだか悔しかった。

 
 ――私は恋なんて、まだ知らないのだから。









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