【リリアン女学園高等部】



 閑静と呼ぶに相応しい住宅街に小笠原家はある。
 左右どこをみても広々としたお屋敷があって、見かける車のほとんどが外車かそれでなくても高級車と呼ばれるものばかり。綺麗に舗装された遊歩道や、ガス灯を模した街灯。向こうには竹藪らしきものまであって、和洋折衷も如何ばかりかという雰囲気である。そんな住宅街のど真ん中に小笠原家のお屋敷はある。

 小笠原家の門をくぐるのはもう何度目のことだろうか。少なくとも片手の指は越えているはずだ。でも両手分は越えてないだろう。蓉子はそんなことを思いながら立派な門をくぐった。一番最初に訪れたときの驚きはもうかなり記憶の彼方だが、それでも言葉も出ないくらい圧倒されたのは覚えている。それは祥子の立場というものを無言でしかも如実に教えてくれていたから。

 門から中はちょっとした森になっていて、その中を緩やかに蛇行するトンネルみたいな道がある。それを抜けると欧風の庭園が見えてきて、その向こうにとんでもなく豪華なお屋敷があった。
 門まで迎えに来てくれたお手伝いさんに案内されて、これもまた馬鹿みたいに大きな玄関に通される。中にはいると上がり框のうえで和服を召したお上品な奥さまがにこにこと笑っていた。

「蓉子さん、お久しぶりね」
「お久しぶりです、清子小母さま。お元気でしたか?」
「ええ、もちろん」

 あがってと言うので蓉子は靴を脱ぎ、清子さまのあとに従う。

「祥子はいま呼びにいかせたわ。今日はどんなご用件で?」
「山百合会のことで少し」
「そう。お休みの日だというのに大変ね」

 通されたリビングでお茶を飲んでいると、やがて祥子が現れた。
 シンプルなオフホワイトのサマーセーターにグレーのミドルスカート。服装だけ見てみるとあまり蓉子と変わらない。まあ価格や品質でいえば相当に違うものなのは間違いないところだが。

「ごきげんよう、お姉さま」
「ごきげんよう――って、学校じゃないんだから、祥子」

 蓉子が笑うと祥子も「そうですわね」と優雅に微笑んだ。

「体調はどう?」
「大丈夫です。やはり単なる寝不足だったらしくて。お医者さまにも怒られてしまいました」
「そう――良かった」
「ごめんなさい、お姉さま」

 祥子は口調を改めて詫びる。

「ご心配をおかけしてしまって……」
「いいのよ。妹を心配する姉の気分も味わえたことだし」
「私、心配ばかりかけっぱなしで…」

 すみません、と祥子は再び謝る。

「いいの。あんまり出来が良すぎる妹じゃお姉さまとしてはつまらないものよ」
「紅薔薇さまとか、ですか?」
「私はそんなに出来がいい妹じゃないもの。江利子の方がまだそつがないかもね」

 それから清子小母さまを交えて三人はしばらく歓談した。
 途中、珍しく自宅にいた融小父さまが顔を出したので挨拶をする。お祖父さまもいらっしゃるから昼食はみんなで頂きましょうということになったあと、蓉子は祥子に誘われて彼女の自室へと向かった。



 §



 初めて訪れた祥子の自室は、まさしくゴージャスと形容しても良い部屋だった。
 さすがに天蓋付きのベッドなんてものはなかったものの、ダブルより遙かに大きな寝台は驚くに値するだろう。お手洗いや浴室も専用のものがあるというし、隣の部屋への扉だろうと思ったドアはまるまる一室を占領したワードローブだったりする。
 一応学生らしく勉強用の机もあったが、それはどう見ても書斎にでも置くような重厚なマホガニーの机であったし、その向こうには書物を収める書棚が三つも並んでいる。

「どうぞ」
「ありがとう」
 
 蓉子は祥子が勧めてくれた壁際のソファーに腰を下ろした。目の前には小さな硝子製のセンターテーブルがある。楕円形のそれはなかなか趣味の良い逸品だ。一輪だけ活けられた淡いピンクのバラはさり気なくその場を彩っていてくれる。
 蓉子は部屋の隅にあるいくつかの観葉植物を眺めて、それから自室に持ってきてもらったティーポットで紅茶を淹れている祥子の後ろ姿を見る。
 祥子はこちらに背を向けながら、蓉子の座っているふたりがけのそれは午後になると日が射し込んでくるのだと教えてくれた。なんでも昼寝するにちょうど良いらしい。
 確かに座り心地は良いし、ぽかぽかしてきたら眠くなるかもしれないなと思う。

「粗茶ですが」

 紅茶を持ってきた祥子がそう言って、ティーカップをテーブルに置いてくれた。ありがとうを言って、ひとくち頂く。普段飲みつけている紅茶とは比べものにならない芳香が蓉子を包む。
 
「良い香りね」
「この春摘んだばかりのファーストフレッシュですの」

 なにやら自慢げに祥子は笑う。
 それから彼女は蓉子の隣に腰を下ろして、自らの紅茶に口を付けた。しばらくオレンジペコの芳醇な香りに包まれた優しい沈黙が続く。ふたり並んで座るソファーはとても居心地が良かった。このままふたりでお昼寝をしたいな、なんて欲も芽生える。
 でも昼寝をする前に蓉子にはするべき事があった。彼女は小笠原家にただ遊びに来たわけではない。やがて口を開いたのはでも蓉子ではなく祥子の方だった。
 
「お姉さま」
「なに?」
「今日わざわざ来られた理由を教えて頂けませんか」
「理由、ね」

 あなたの顔が見たかったのよ、と言えば祥子は喜ぶだろうが、蓉子はもちろんそんなお惚気をするつもりはない。蓉子は祥子が倒れたあの時の答えを受け取りに来たのだ。

 お稽古ごとを選ぶか。
 山百合会の仕事を選ぶか。

 あれからもう一週間が過ぎた。答えを出すのには充分な時間だっただろう。だから蓉子は素直に来訪の目的を告げた。祥子もきっと判ってて聞いてきたのだ。

「もちろん、このあいだの返答を聞きに来たのよ」
「どちらかを選べ、と」
「そう」

 蓉子は頷いてみせる。

「答えは出たかしら?」

 祥子は持っていたティーカップをテーブルに戻すと、半身だけずらして蓉子を正面に見るよう座り直した。同じソファーのうえで視線が交錯する。

「私はどちらもやめるつもりはありません」

 祥子はキッパリと言った。迷いのない真っ直ぐな目で。
 しかし蓉子にはその奥に隠されている無理が痛いほどわかる。判ってしまう。姉妹だから、ではなくそこにいるのが祥子だから。蓉子のよく知る、壊れやすいガラスの心をもった少女だから。

「まだ、そんなことを言うの?」
「小笠原の娘として生まれたからにはこれぐらいで音を上げていてはいけませんもの。このあいだは油断して不覚を取りましたけど、もうあのようなみっともない真似は致しません」

 居眠りのことに言及しないのが祥子には弱みだからだろうか。
 しかしそんな些末にいちいち突っ込んでいても仕方がない。

「――それはまた立派なことね」

  そう答える蓉子の声は我ながら冷たかったかもと思う。言われた方の祥子はあきらかに動揺していた。
 結局彼女の主張は張り子の虎なのだ。祥子の言う通り出来るものなら、最初からこんな風に二者択一など迫ることはなかった。
 蓉子はため息を吐くと、

「じゃあ、山百合会を辞めましょうか」
「……」
「お姉さまには申し訳ないけど――仕方ないわ」

 面を伏せていた祥子がはっと顔を上げる。
 
「お姉さま、なにを……?」
「あなたがお稽古ごとを辞めないというのなら、山百合会の仕事をさせるわけにはいかないじゃない。このままだとあなた壊れてしまうもの。だったら山百合会を辞めるしかないでしょう?」
「……やはりロザリオを返せと、仰るのですね」
「違うって言ったでしょ」

 蓉子は微笑んだ

「私が山百合会を辞めさせてもらうの」
「えっ…?」
「私が紅薔薇のつぼみでなくなれば、あなたも紅薔薇のつぼみの妹(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン プティ・スール)じゃなくなる。山百合会とはなんの関係もなくなるから、あなたは安心してお稽古ごとに専念できるわ」
「そんな……っ! どうしてお姉さままで山百合会を辞めなければならないんですかっ!」
「だって、あなたを放り出すことなんて私には出来ないもの」

 息を呑む音が聞こえた。
 蓉子は真っ直ぐに愛しい妹を見据える。嘘は言いたくないし、嘘と思われたくない。
 しっかりと祥子の目を見て、そして逸らさずに蓉子は言った。

「山百合会とあなたのどちらかを選べと言うのなら、私は躊躇わずにあなたを選ぶわ」

 祥子は言葉を忘れたかのように沈黙していた。
 おおきく見開かれた彼女の瞳には確かに蓉子が映っているはずだった。
 
「それだけ私にとってあなたは大事なの。必要なのよ」
「……」
「言っておくけど、冗談なんかじゃないからね」

 もちろん本気だった。明日にでもお姉さまに謝りに行こう、と蓉子は思った。許してもらえるかなんて判らないけど、お姉さまに嘘は付けないから。
 もちろん蓉子だって山百合会は好きだ。山百合会のみんなも好きだし、お姉さまも大事なひとだ。
 でも祥子に辛い想いをさせるくらいなら蓉子はすぐ山百合会を捨てることができる。それは間違いのない事実。
 
 やがて祥子の頭がふるふると揺れ、唇から嗚咽のような悲鳴が洩れてきた。

「だめ。だめです、お姉さま。そんなことしたらだめ……」

 白磁のような頬に雨垂れのような雫が次々と流れ出す。

「でもね、祥子」
「そんなのだめですっ!」

 祥子は叫んだ。

「お姉さまは辞めたらだめっ! だめなんです。だめ、だめなの……」

 そのまま顔を両手で覆い、祥子は泣き崩れる。
 ふぅ、と蓉子は息を吐く。

「じゃあ、お稽古ごとを辞められるの?」
「……」
「どうなの?」
 
 重ねて聞いても祥子は顔を上げない。

(困ったな…)

 蓉子は途方に暮れた。なぜ祥子はそこまでお稽古ごとに拘るのだろう。
 なにも全部やめろとは言っていないのに。
 
 祥子がお稽古ごとをはじめたのはかなり幼い頃からだったと聞いたことがある。
 一番始めはピアノだったかバレエだったか、とにかく小さい子でも出来るようなお稽古ごとだったはずだ。そして祥子が年をとるに連れて、お茶道や華道、書道に日本舞踊も増えていったという。なんにせよ祥子の初等部から中等部までの義務教育期間中はほとんどお稽古ごとで余暇を埋められていたはずだった。
 
(あれ全部、祥子が習いたいと言ったのだろうか?)

 しかしそれはあまりにもハードワークだ。己を知らぬ祥子でもない。すべてを彼女が進んで習い始めたとは到底思えない。それが蓉子の一番大きな疑問だった。
 嫌なことを嫌と言いきれない祥子の性格。家族に対してはさらにそれが顕著になる。
 清子小母さまはとにかく、祥子は融小父さまには我が儘だって告げたことはないのではなかろうか。仲が悪いわけではないがどうも男性に対しては一線引いているような感じが拭えない。それはお祖父さまに対しても同じで、だから不満のやり場を失った中等部の時は彩子お祖母さまのもとに逃げ出したりしたのだし――。
 そう考えた瞬間、蓉子の脳裏に閃いたものがあった。

「ねえ、祥子」

 蓉子はまだ肩を震わせている祥子の手を掴んだ。
 ぴくっと重ねた手が震える。

「あなた、誰を庇っているの? 誰に気兼ねしているの?」
「――っ!」

 祥子の焦燥が手のひらを通じて蓉子に届く。つまりそれは蓉子の想像が間違っていないという証拠だろう。
 蓉子はさらに考え込んだ。思考の軌跡をトレースするように呟くのは敢えて祥子に聞かせるためだ。

「清子小母さまがあなたに何かを強制させるなんて考えるはずはないし、融小父さまなんかそんなの気にしてもいないわよね…」

 となると。

「――お祖父さまか」
「!」

 祥子が蓉子の手を掴んで顔を上げた。綺麗だった顔が涙でぐちゃぐちゃに濡れている。

 その顔を見て、蓉子は確信した。
 確かに祥子にあれこれと指図できるのはお祖父さまをおいて他にいないだろう。祥子を立派な淑女に育て上げると常々口外していたような方だし、強引さは祥子のそれなんかとは比較にならない。
 
(あのお祖父さまならお稽古ごとを課そうとするかもしれない)

 もちろんお祖父さまとしては祥子のためを思ってしていることだろう。彼女に注がれる教育費は恐らく半端ではないが、それと同量の愛情もまた注いでいるはずだから。
 
(でもね)
 
 蓉子は親指の爪を噛んだ。
 蓉子だって数年前に会って以来、小笠原のお祖父さまにはよくして頂いている。悪い人では決してない。
 少し独善が過ぎる傾向もあるが小笠原グループの総帥ともなればそれは欠点ですらないだろう。年のわりには若いところもあるし、年輪を刻んだ渋さもある。
 
 しかし――しかしだ。
 
 これは祥子にだって言えないことだが、小笠原家に連なる男どもは根本的にどっか歪んでいる、と蓉子は思っている。それは祥子のお父さまである融小父さまでさえ例外ではない。
 
 彼らは他人に対する心配りという点で重大な欠陥を抱えていて、しかもそれを自覚していないという困ったひとたちだった。彼らに意を汲み取れというのはだから無茶な話なのであって、彼らに事態を理解させるのなら、誤解のないような言い方で、ハッキリ伝えないとダメなのだ。

「そうか。そういうことか」
「お姉さま…っ。なにをお考えですっ」

 蓉子は詰め寄ってくる祥子に優しく声をかける。

「ちょっと待ってなさい」
「お姉さま…?」

 蓉子は妹から握りしめられていた指を引きはがし立ちあがった。祥子は不審げに呟き、それから慌てたようにして言葉を継ぐ。
 
「なにをするつもりなんですか?」
「なにって」

 祥子を見下ろし。

「決まってるじゃない」

 蓉子は決意を滲ませた唇に笑いをのせた。
 飛ぶことを怯える小鳥に、大空の楽しさを教えるには、まず籠から出してあげることだ。
 例えその籠がそれがどんなに高価で綺麗なものであったとしても、愛情からだったとしても、それが羽を伸ばせない檻であるかぎり壊してしまった方がいい。ずっと前からそれは考えていたことだった。

「子供はね。いつまでも唯々諾々と従うばかりじゃないの」

 任せなさいとばかりに蓉子は笑った。
 祥子が言えないのなら彼女に替わってそれを伝えるものがいればいい。

「――ときには反抗だってするものだって教えてあげないと。おとなたちはいつまで経っても子供扱いするから」
「お姉さま…」
「覚えてる? 私がこの屋敷に初めて連れて来られたときのこと。もうあの時のように私は無力じゃないし関係なくもないわ」

 だってそうでしょう、と蓉子は微笑んだ。
 祥子を安心させるように。

「私はもう、あなたのお姉さまなんですからね」









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