【リリアン女学園中等部】



 ときの流れは意外と早いものだ。



 まだ冬の残滓がちらほらと残る三月。リリアン女学園中等部でも卒業式が行われていた。
 リリアン中等部の卒業生は概ねこの四月から同じ敷地内にある高等部へ通うことになっている。生徒たちも学園自体から離れるわけではないので、卒業式といってもあまり湿っぽい雰囲気にはならないようだった。どちらかといえば高等部への憧れがもうすぐ実現するとあって喜びの方がおおきいのかも知れない。

『卒業生答辞』

 呼ばれて蓉子は立ちあがった。新入生の時も挨拶した自分が卒業式でも答辞を読むなんて思いも寄らなかった。予想できるような人生なんて楽しくもないからいいじゃないと軽口を言ったのは江利子だっただろうか。相変わらず面倒なことを好んでやるわね、と皮肉ったのは聖だったか。しかしこれもまた自分の性なのだろう。頼まれれば嫌と言えない性格は、そうそう簡単には直らないものなのだ。



 §



 卒業式を終え、講堂を出ると下級生たちが出迎えてくれた。
 それぞれ親しかった先輩方にお祝いの言葉を述べる娘もいれば感極まって涙を流す娘もいる。
 卒業生にとっては同じ敷地内だといっても、やはり高等部というだけで中等部の生徒にとっては高い壁がある。校舎同士は連絡通路で繋がっているけど高等部の校舎になんて入り込むなんて相当勇気ないとできることではない。よほどの用事がない限り失礼にも成りかねないわけで、見つかったときは注意ぐらいで済まされるかどうか。
 
 そんな下級生たちに混じって、蓉子のもとにも女生徒たちが寄ってきていた。面倒見の良かった蓉子は数々の委員会や生徒会、果てには一斉クラブでの後輩などから人気も高かった。
 
「先輩、卒業おめでとうございますっ」
「ありがとう」
「先輩先輩っ、答辞格好良かったですっ」
「あら、聞いていたの?」

 がやがやと雑談しながら時は過ぎていく。なかには手作りのクッキーをお祝いだと持参するものもいて、その場の雰囲気はちょっとしたパーティーみたいなノリがあった。

「あっ」

 誰かがなにかに気付いたように低く叫んだ。ちょっと、ほら。え、ああ。ほらほら。
 そんなざわめきが聞こえてきて、潮が退くように、生徒たちが下がっていく。どうしたのだろうと思ったら、彼女達の視線の先には祥子が大きな花束を抱えて待っていた。

「――祥子」
「ご卒業、おめでとうございます」
「ありがと。といっても高等部に上がるだけだから、あんまり実感はないわね」

 祥子から花束を受け取りながらそんなことを言ってみる。実際、卒業につきものの惜別感というものがないとはいわないが薄いのは確かだった。小学校の時はもっと泣いていたような気がする。
 
 ちょっと歩きませんか、と祥子が言うので、蓉子は他の下級生たちにお礼を言ってその場を離れた。残念そうにしている娘もいたが素直に従ったのは蓉子の相手が祥子だったからだろう。

 講堂から校舎へと続く道をふたりとも黙ったままで歩く。
 行き交う生徒たちには様々な表情が溢れていて見ていても飽きない。保護者らしい大人たちは、ちょっと離れた場所から下級生と歓談している娘をそっと見守っているようだった。あのなかには蓉子の両親も混じっているのだろう。ただじっと待っていてくれる親たちに蓉子は「もう少し待っていて」と心の中で頭を下げた。
 
 常緑樹の並木道の途中で左に折れると舗装されていない小道がある。下生えの雑草に囲まれ、緩やかに曲がりながらその道は古い温室へと繋がっていた。ここはリリアンの中でもあまり知られていない場所だ。

「……どうしたの、こんなところまで連れてきて」

 温室の前で足を止めた祥子が一向に喋ろうとしないので蓉子はそう言って水を向けることにした。わざわざこんなところまで連れてきたと言うことはあまりひとに聞かれたくない話があるのだと思う。

 祥子と知り合ってもう二年近い月日が流れていた。初めて会ったときから祥子の印象は随分変わったと蓉子は思う。それは蓉子が祥子について色んなことを知り得たからでもあるが、むしろ蓉子自身の変化も多分にそれに寄与しているのではないだろうか。
 リリアンという世界は確かに温室じみたところがあって、それ故に純粋な心に触れあうことも多かった。良いにせよ悪いにせよ、その経験は蓉子という一人格に様々な影響を与えたことは間違いない。
 あと三年。これからあと三年だけ、蓉子はリリアンに通うことになる。リリアンにも大学はあるが、きっと自分はそこには通わないだろうという妙な確信が蓉子にはあった。将来に置いて、この場所で過ごしたことがその後の人生にどれだけの響いてくるのかわからない。でもこのリリアンで時間を過ごせたことを後悔するような真似だけはしたくないと蓉子は思っている。

「祥子」

 もう一度呼びかけた。それでようやく祥子は振り返ってくれた。

「蓉子さまは、お母さまに連れられて私の自宅に来て頂いた時のことを覚えていますか?」
「え、ええ」

 あれは確か、二年生の時だっただろうか。
 帰り際に清子小母さまに会って、強引に祥子の自宅へと連れて行かれたことがあった。家族総出で歓迎してもらったのには面食らったものだが…。
 しかしどうして今頃そんな話をするのだろう。蓉子は不思議に思った。
 昔話に花を咲かせると言うには祥子の表情は固すぎる。それはまるでマリア様に懺悔をするかのようで、余裕というものがない。祥子は面を伏せ、ぽつりと呟いた。

「あれは蓉子さまを試すためだったんです」
「え?」

 蓉子は祥子の言葉の意味が分からなくて戸惑った。試す、と聞こえたがそれの指し示すものがわからない。確かにあのとき色々なことを聞かれた覚えはあったがその内容はもう覚えてはいなかった。いったい私はなにを試されたのだろう?

「お祖父さまとお父さまは、私に近づこうとするひとがいるとああやってそのひととなりを観察するんです。私に対してへんな下心を持っていないか、妙な考えを隠していないか、見極めるために」

 それを聞いて、ああそうか、と蓉子は納得した。
 あのとき、祥子が終始不機嫌だったのはお母さまの強引さに対するものではなかったのだ。

「ごめんなさい」
「……それはあなたが謝ることじゃないわ」

 そうだ祥子はなにも悪くない。かといって祥子のお祖父さまや小父さまを怒る気にも蓉子はならなかった。
 ああいった家庭であれば娘の交友相手に対しても神経を使わざるをえないのだろうと思ったからだ。「悪い子」と付き合ってはいけません、というのは親ならば一度は言うものだろう。ましてや由緒ある小笠原という家ともなればなにをかいわんやというところか。
 
 それにしても、と蓉子は目の前で頭を垂れている祥子を静かに見据えた。そんな裏事情があったとしても黙っていれば蓉子には判らなかったはずなのに――。

「ひとつ聞いていいかしら」
「――はい」
「その試験とやらに受からなかったらどうなっていたの?」

 その問いに祥子はすぐには答えなかった。蓉子が重ねて尋ねるとようやくその重い口を開いた。

「たぶん――もう逢えなかったと思います」
「逢えない?」
「はい」
「どういうことか、聞いていい?」

 やがて祥子が語ったのは、蓉子と祥子を引き離す唯一でしかも簡単な方法だった。
 
「――退学?」
「はい」
 
 祥子はそれ以上話さなかったが、彼女の表情は過去にそのようなことがあったと雄弁に語るものだった。
 どのような方法でかは知らないが、もし蓉子が作意を隠して祥子に近寄っていたなら彼女の言うとおり自分はリリアンには居られなくなっていたのだろう。
 
「ごめんなさい」
 
 祥子はもう一度頭を下げた。
 
「だから、あなたが謝る事じゃないっていってるじゃない」
「ですけど…」
 
 自身で友人も選べないという祥子。それはなんと窮屈な生き方であろうか。
 
(ああ、そうか)
 
 ようやく蓉子は気付いた。
 祥子が、自らの周囲に無形の壁を作ってクラスメイトと深い交わりをしてこなかったわけを。
 
 祥子が好んでひとりでいたのは彼女自身を守るためではなく、彼女のまわりで普通に過ごすみんなを守っていたかったからなのだ。自分が関わることでその相手の日常を壊すことを恐れたから。自分がなにもしさえしなければみんなは平穏な日々が過ごせるはずだと信じていたのだろう。

「蓉子さまはお祖父さまのお眼鏡に叶った最初の方です。少なくとも小笠原に関わらない方のなかでは」
「そう」

 別に怒ろうとか、嬉しいとか、そういう感情はなかった。かといって褒められたとも思わない。
 蓉子はただ、祥子が可哀想だった。生まれた立場のせいで、ただそれだけのせいで、どれだけ彼女は息苦しい思いをしてきたのだろう。

「あなたのご家族の意向はわかったわ。そりゃあまりいい気はしないけど、大人には大人の事情があるのでしょうし、私が口を出せることでもないから、この件については不問ということにしたいわ。それでいい?」
「蓉子さま……」
「でも、ひとつだけ聞きたいことがあるの」

 蓉子は祥子を見据えた。

「家族の意向は別にして。あなたにとって、私はどういう存在だったの?」
「どういう……存在?」
「そう。ただのお節介な先輩か。それとも口うるさい上級生とか」
「そんなこと――」

 思ってもみなかったと祥子は言う。

「蓉子さまは私の憧れでした。きっと初めて逢ったときから私は蓉子さまに惹かれていた――」

 ガラス越しの出会いはいまでも夢に出てくるほど鮮烈で。
 ふたりで過ごせた日々は、宝石にも喩えられるほどの輝きを放っていた。

「…こんな想いはご迷惑ですか?」
「いいえ、嬉しいわ」

 祥子の頬を、涙が伝う。
 長い髪が、風とともにゆっくりと舞う。

「ずっとずっとあなたの後を追いかけたいと思いました。あなたの傍にいたいと思いました。ですから――」
「祥子…」
「約束、してください」

 瞳が。
 蓉子を。
 見つめて。

「私を――」

 その瞬間、お聖堂の鐘が時を告げた。祥子の小さな言葉はわずかに蓉子にだけ届いて。
 重々しい鐘の音に掻き消された言葉はふたりだけの約束になった。
 
 静かに頷いて、蓉子は祥子を抱き寄せる。
 
 温室の脇には気の早い桜が、もう咲いていた。
 薄桃色の花びらが恥ずかしげに揺れて、抱き合うふたりをいつまでも見守っていた。









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