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2.



 研究室を出て最初の分岐を結衣は左に曲がった。まっすぐ進めば、昨日行った謁見の間へ向かう。そちらは王宮の”表側”に当たる。
 謁見の間の他に、貴賓室、執務室、会議室、パーティホールなどがある。昨日のようにうっかりエライ人に鉢合わせする可能性が高いので、結衣としてはあまり足を踏み入れたくない。
 だからあえて”裏側”の方へ行ってみる事にした。
 角を曲がって少し行くと、なんだかおいしそうな匂いが漂ってきた。厨房が近くにあるようだ。という事は、覗くなと言われた食料庫もあるのかも。
 結衣は努めてキョロキョロしないようにしながら、ゆっくりと廊下を進んだ。
 前方左手に扉の開け放たれた部屋があり、その奥からおいしそうな匂いと共に、話し声やトントンと小気味のよい音が漏れている。おそらくそこが厨房だ。
 ちょっと覗いて見ようと近付いた時、中からエプロンをつけた女の子が飛び出して来た。
 ぶつかりそうになって思わず声を上げると、女の子は小さな悲鳴を上げて後ろに一歩飛び退いた。
「ごめん! 驚かせて」
 結衣が謝ると女の子は深々と頭を下げた。
「こちらこそ、申し訳ありません!」
 女の子のあまりに恐縮した様子を唖然として見つめて、ハタと気がついた。自分は今、王子様だったのだ。
「いいよ、気にしないで。ボクがぼんやりしてたから。顔を上げて」
 結衣がそう言うと女の子は恐る恐る顔を上げた。
「何をやっているの?」
 入口でもめていると、中から別の女の子が怪訝な表情で現れた。彼女は結衣の姿を見ると、途端に人なつこい笑顔を浮かべて話しかけてきた。
「あ、レフォール殿下じゃないですか。どうぞ寄っていって下さい。新作のお菓子があるんですよ。ぜひご賞味下さい」
「……あ、でも……」
 いったい、どう反応するべきなんだろう。王子が厨房の人と親しいとはラクロット氏から聞いていない。
 結衣がためらっていると、女の子は腰に手を当てイタズラっぽい笑顔で小首を傾げると、片目を閉じて見せた。
「もちろん、ラクロットさんには内緒です」
 なるほど、そういう事か。結衣は思わずクスリと笑う。
「じゃ、寄っていこうかな」
「どうぞ、こちらへ」
 女の子はにっこり笑うと、結衣を厨房の中へ招き入れた。
 部屋に入ると皆がそれぞれ笑顔で結衣に挨拶をする。王子は使用人たちに慕われているようだ。
 女の子に案内されて、厨房の隅にやって来ると机の上にカップケーキが並べられ、甘い香りを放っていた。
「どうぞ、お召し上がり下さい」
 勧められるままに手に取ったカップケーキはまだほんのりと温かかった。
「いただきます」
 結衣がケーキを頬張っていると、その様子を見つめながら女の子が満足そうに微笑んだ。
「お気に召しましたら、いくつかお持ち帰りいただいてよろしいですよ」
 おいしいお菓子は作るのも食べるのも大好きだ。結衣は思わず声が弾んだ。
「本当? じゃあ、ロイドの分と二つもらってもいい?」
 笑顔で尋ねると女の子は不思議そうに首を傾げた。
「あら、ヒューパック様は甘いものが苦手ではありませんか?」
 しまった。ロイドの嗜好までは聞いていなかった。結衣は苦笑して女の子に質問返しする。
「え……そうだったっけ?」
「ええ、何度かお勧めしましたが、断られました」
「そっかぁ、ボクの知らない事もあるんだね。ははっ……」
 結衣は苦し紛れに乾いた笑いを漏らす。
「じゃあ、ラクロットにあげようかな」
 上手く切り返したつもりになっていたら、女の子が苦笑と共に指摘した。
「それじゃ、よけいな間食した事がばれちゃいますよ。それにラクロットさんは今虫歯の治療中のはずでは……」
「……そうだったね。じゃあ、ボクの分だけにしておくよ」
 結衣はガックリと肩を落とした。どうしてあの人たちは自分の事を教えておいてくれないのだろう。
 ラクロット氏はともかく、ロイドについては一番気になる謎がある。
 どうして王と王子に信頼されているのか。厨房の人は知らないかもしれない。これについてはラクロット氏に訊いてみよう。今の時間ラクロット氏は王子の部屋の掃除を監督しているはずだ。
 紙袋に入れてもらったお菓子を受け取り、結衣は厨房を後にした。



 厨房の裏から使用人たちが使う階段を上がって二階に出ると、すぐ隣にある客室の前で掃除道具を持った女の子が二人もめていた。
「どうしたの?」
 結衣が尋ねると、片方の女の子がもう一人を指差しながら困ったように告げた。
「あ、レフォール殿下。聞いて下さいよ。この子が幽霊がいるから客室に入りたくないって言うんですよ」
 結衣は思わず眉をひそめる。
「幽霊? 見たの?」
 女の子はモップの柄を握りしめて結衣に訴える。
「姿は見てませんけど、絶対にいます。だって、今はお客様がいないのに、お風呂場から濡れた足跡が点々と部屋の中を歩き回ってるんですよ」
 思わずホラー映画のワンシーンを想像して結衣は顔を引きつらせた。
「へえぇ。誰か君が部屋に入る前に、入った人がいるんじゃないの?」
 結衣が問いかけると、女の子はムキになって更に言う。
「そんな人はいません! いたとしても濡れた足で部屋の中を歩き回る意味がわかりません」
 女の子の剣幕に結衣は苦笑すると、
「確かに。ラクロットに伝えておくよ」
そう言って彼女たちと別れ、客室の少し先にある王子の部屋に向かった。
 部屋の扉を開くと、ちょうど掃除を終えた女の子たちが出て行くところだった。女の子たちを見送った後、結衣はラクロット氏に客室の幽霊の事を告げた。
 ラクロット氏は、さほど驚いた様子もなく軽くため息をついた。
「よくある事です」
「え? よく幽霊が出るの?」
「いえ、そういう噂の事です。真夜中に厨房から水音が聞こえたとか、満月の夜に庭園で白い影が踊っていたとか。全部根拠のない噂です」
「なーんだ。すぐそばの部屋だから、こっちにも出たらやだなって思っちゃった」
 結衣は安堵と共に苦笑を漏らした。そして、ロイドの謎についてラクロット氏に尋ねた。 ラクロット氏は笑顔であっさりと教えてくれた。
「昔、陛下がまだ皇太子殿下だった頃、お知り合いになったそうです」
 当時、若き国王は身分を隠して、お忍びで遺跡の見学に行っていた。そこで考古学者と共に遺跡の調査に来ていたロイドと出会ったらしい。
「お二人の間にどんなやり取りがあったのかまでは私は存じませんが、ヒューパック様が陛下に信頼されている理由はわかります」
 黙って見つめる結衣をまっすぐ見据えて、ラクロット氏はきっぱりと言った。
「ヒューパック様は、金や名誉をちらつかせても決して動きませんから」
 それはなんとなくわかる。そんなものに釣られる奴なら、ラフィット殿下の甘い言葉にあっさり乗っているはずだ。
 どこの世界でも、人はそんなものに揺らぎやすいのだろう。庶民は金に、エライ人たちは地位や名誉に。どちらにも揺れないというのは確かに信頼に値する。
「まぁ、あの方の場合、一度こうと決めたら、てこでも動きませんからねぇ。別の言い方をすれば、頑固ってことですかね」
 そう言ってラクロット氏は首をすくめてクスリと笑った。結衣もつられて笑う。
「じゃあ、王子様がロイドを気に入ってるのは何故?」
 結衣の質問にラクロット氏は更に破顔する。
「あぁ、それはもっと単純な理由です」
 国王に気に入られたロイドは、度々王宮にやって来るようになった。
 ある時、手土産として幼い王子に機械仕掛けのおもちゃを献上したという。これをいたくお気に召した王子は、その後ロイドが王宮にやって来るたび、まとわりつくようになった。
 だが、元々ロイドは王子と遊ぶためにやって来ているわけではない。王の依頼による仕事の打ち合わせ等で、必然的に王と話す時間の方が長くなる。
 幼い王子にしてみれば、王がロイドを独り占めしているように見えたのだろう。いつもは聞き分けのいい王子が、ある日思いあまって、ロイドを自分にくれと王に願い出た。
 ひとり息子を溺愛する王は、我が子の初めてのおねだりに喜んで、ロイドに研究施設ごと王宮内に移転してくれるよう頼んだ。
 ロイドは居場所が変わるだけで何の問題もないため、これを快諾し現在に至っている。
「王族や貴族の中には、出自のわからないヒューパック様が王宮内に住まう事を快く思わない者もおりますが、ご本人は意に介しておりません。多少強引で頑固な方ですが、ご結婚なさるなら私も歓迎いたしますよ」
「はい?」
 ラクロット氏がにっこり笑って突飛な事を言うので、結衣は思わず目が点になった。
「陛下のご提案だそうですね。お互い好き合ってるようだから、その内いい返事がもらえるだろうとおっしゃってました」
 どこが好き合ってるように見えたのかは謎だか、もしかすると王は結衣がうやむやに言い逃れたのを察知して、外堀を埋める作戦に出たのかもしれない。
 胸を触られたし、キスされたし、ここはロイドに責任を取ってもらって、王の望む通り結婚するしか――と諦めかけた時、ふとロイドの勝ち誇ったような笑顔を思い出した。
 妄想の中のロイドがふんぞり返って結衣に告げる。

――おまえは、これから一生、オレのおもちゃだ――

(絶対イヤだ! あんな俺様なダンナ!)
 だいたいロイドの有無を言わせぬ強引さは、ラクロット氏の言うような”多少”程度の控えめなものではない。あの二重人格ぶりに、ラクロット氏も騙されているに違いない。
 結衣が大きくため息をつくと、ラクロット氏は不思議そうに首を傾げた。
「いかがなさいましたか?」
「なんでもない。個人的な心の葛藤です」
「そうですか」
 そう言ってラクロット氏は、懐中時計を取り出して少し眺めた。
「昼食までには、まだ少し時間がございます。東屋にでも行かれますか?」
「東屋?」
「えぇ。庭園の西の端にあります。殿下はよくそこで本を読んだりなさってます」
「ふーん。庭園は午後から探検しようと思ってるから、昼まではロイドのとこにいる」
 結衣がそう言うと、ラクロット氏は懐中時計をしまい、にっこり笑って軽く頭を下げた。
「かしこまりました。では正午に食堂でお待ちしております」
「わかった」
 結衣は軽く手を挙げて、ラクロット氏に別れを告げると、元来た道を引き返してロイドの研究室に向かった。




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