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8.



 部屋に入り扉を閉めた途端、ロイドは縋るようにして結衣を抱きしめた。
『多分』とは言ったが、何もしないと言った舌の根も乾かないうちに、いきなり方針を翻すとは思ってもみなかった。
 結衣の全身は硬直し、鼓動は早鐘を打ち始め、無意識に声が上ずった。
「な、何?」
 するとロイドは、ため息を吐き出すように、つぶやいた。
「肝が冷えたぞ、おまえ」
「あ?」
 一気に全身から力が抜けた。あまりにも意識しすぎていた自分が滑稽に思えて、急速に熱が冷めていく。
 結衣は少し笑って問いかけた。
「王子様を叩いた事?」
「本当なら、タダじゃ済まないところだぞ。殿下の懐の広さに感謝しろ」
 そう言ってロイドは身体を離すと、結衣の額を軽く叩いた。
「そうね。ラフィット殿下だったら極刑だったかも。それでもあなたは、かばってくれた?」
 結衣がからかうように顔を覗き込むと、ロイドは顔をしかめて再び額を叩いた。
「訊くな」
 二人でリビングに向かおうとした時、入口の扉がノックされた。ロイドが応対に出ると、ラクロット氏がそこにいた。結衣が王子の部屋で使っていた生活用品と着替えと小鳥を届けてくれたらしい。
 ロイドはそれを受け取り結衣に渡すと、二人で改めてリビングに向かった。
 たどり着いたリビングは、相変わらず足の踏み場もないほど、機械部品や工具が散乱している。
 ロイドは入口で少し考えた後、結衣を振り返った。
「先に風呂に入ってこい。その間に片付けとく」
 そして早速、床に散らばったものを拾い集め始めた。結衣は言われた通り、ロイドに教わった風呂に向かった。
 風呂から戻ってみると、リビングが見違えるほど広くなっていた。
 作りかけの機械と、その部品や工具の入った箱が、部屋の隅にまとめて置かれ、ロイドが床にモップをかけている最中だった。
 結衣は部屋を見渡して、感心したようにつぶやいた。
「この部屋、こんなに広かったのね。あ、手伝おうか?」
 結衣が尋ねると、ロイドは床掃除を終えて、モップを片付けながら答えた。
「もう終わった。座ってろ」
 リビングを出て行くロイドを見送りながら、結衣は言われた通りソファに腰掛ける。
 少しして冷えたお茶の入ったグラスを持って、ロイドが戻って来た。差し出されたグラスを受け取り、結衣がお茶を飲み始めると、ロイドが大きくため息をついた。
「どうしたの?」
 結衣が首を傾げると、ロイドは中空をぼんやり見つめたまま、独り言のようにつぶやいた。
「何やってたんだろうな、オレは。ひと月近くも。殿下の事も、遺跡の事も、全部おまえの言った通りだった」
 やはり、呆気なさ過ぎる結末が、ロイドを落胆させたらしい。結衣は少し微笑んでロイドの腕に手を添えた。
「でも、マシンの改造は無駄じゃなかったと思うわ。これからも、きっと役立つと思うし。あれは、あなたにしか出来ない事だもの」
 ロイドは結衣を見つめて少し笑顔を見せた。
「あぁ。確かに数少ない収穫のひとつだ」
 結衣の髪をサラリとひと撫でして、ロイドは気が抜けたように嘆息した。
「だが、急にヒマになって困ったな。本当は今夜中に内蔵プログラムの変更だけでも、しておこうと思ってたんだが、それも必要なくなったし。残処理があるにはあるが、明日の午前中には片付くな。おまえは、どうする?」
「え? 何が?」
 突然、話を振られて、結衣は面食らった。結衣はいつも研究室にいるだけで、何も手伝ったり、仕事をしたりしているわけではない。
 ロイドは穏やかな表情で、静かに問いかける。
「元々は三日後の朝の予定だったが、明日の真夜中、正確には明後日だが、ニッポンに帰る事も出来るぞ」
 そんな事、答えは決まっている。
 結衣はロイドを真っ直ぐ見つめて、キッパリ答えた。
「予定通りでいい。最後まで、あなたと一緒にいたい」
「そうか」
 ロイドがホッとしたように微笑んだ。彼が自分と同じ気持ちなのだと思うと嬉しかった。
 しかし、異世界検索の必要がなくなった遺跡の同期を、ただ放置するのはもったいない気もした。夜に同期を迎えるのは明日が最後だ。そこで、結衣はロイドに提案してみた。
「ねぇ。みんなで遺跡が派手に光るところを見物しない? 夜は明日が最後だし。王子様やローザンやブラーヌさんや、みんなで」
 名案だと思ったのに、なぜかロイドは渋い顔をする。
「みんなで?」
 不服そうに問い返すと、ロイドは甘えるように両手で結衣を抱き寄せた。
「二人でいいだろう? 殿下はともかく、ローザンは仕事でもないのに真夜中に呼び出したら気の毒だ」
「それ、今思い付いた口実でしょう?」
 結衣がクスリと笑うと、ロイドは目を細くして反論する。
「おまえ最近、余計な一言が多いな。口実じゃなくて正論だ」
「じゃあ、ブラーヌさんは?」
「あいつは活動期が終わるまで、引き上げてもらう。遺跡の調査を急ぐ必要もなくなったし、何よりあいつの世話で煩わされたくない」
「活動期じゃなくても、ごはんの世話はしなきゃならないじゃない」
 結衣が反論返しを続けていると、ロイドが苛々したように結衣を抱きしめた。
「ニブイ奴だな。あと二日しかないんだ。せっかくヒマになったのに、余計な事で時間を無駄にしたくない」
「うん……」
 結衣はロイドの胸に顔を伏せて、強く抱きしめ返した。
 少しでも長く一緒にいたい。もっと話がしたい。もっと触れ合いたい。ロイドも同じ気持ちだとわかり、胸の奥が暖かくなった。
「もう、一緒に逃げなくていいのよね」
「あぁ」
「じゃあ、もう一言、余計な事言ってもいい?」
「何だ?」
 結衣は顔を上げると、ロイドを見つめ微笑んだ。
「あなたが好き」
 ロイドも微笑み返すと、静かに言う。
「おまえ、今度そういう事言う時は覚悟しろと言っただろう」
 結衣はひるむことなく、宣言する。
「覚悟なら、できてる」
 ロイドは表情を変えることなく、問いかけた。
「いいのか?」
「うん」
 結衣が頷くと、ロイドは一層目を細め、軽く額を叩いた。
「無理するな。さっき足がすくんでただろう。急がなくていい。おまえの迷いが完全に消えるまで待ってやる」
「だから、もう迷ってないってば!」
 結衣が食い下がると、ロイドは腕をほどいて席を立った。
「煽るな。もう充分限界なんだ」
「だったら、どうして? あなたの方が迷ってるんじゃないの? 私が帰らないって言ったら困るから」
「そうじゃない。オレはおまえを抱く事に関して、迷いは一切ない。だから、やばいんだ」
「え?」
 意味がわからず、結衣は訝しげにロイドを見上げた。ロイドは結衣を見下ろして、大真面目に答える。
「言っただろう。オレは歯止めのきかない男だ。おまえが途中で怖くなって嫌がっても、止められそうにない。だから、確固たる決意を持って臨んでもらいたい」
「……え……」
 まるで重要任務に赴く特殊部隊にでもなったような気がして、結衣が絶句していると、ロイドはクルリと背を向けた。
「少し待ってろ」
 そう言い残して、ロイドはリビングを出て行った。
 一人になった途端、せっかく高まっていた気持ちに水を差されて、結衣はムカムカと腹が立ってきた。これって、女に恥をかかせるってヤツじゃないだろうか。
 苛々しながら待っていると、ロイドがグラスを持って戻って来た。それを結衣に突きつけ、命令する。
「こいつを飲め」
 差し出されたグラスには、先日飲んだ赤い果実酒が入っていた。
「私に酒は飲ませないんじゃなかったの?」
「おまえ、酒を飲んだら眠くなるんだろう? こいつを飲んで、さっさと寝ろ」
 結衣は眉間にしわを寄せ、プイッと顔を背けた。
「いらない」
 ロイドは小さく舌打ちすると、果実酒を一気に飲み干した。怒ったように無言のまま、音を立ててグラスをテーブルに置き、素早くメガネを外してその横に置いた。
 そして、結衣の横に片ひざを付くと、両手で頬を包み、強引に顔を上向かせて口づけた。
 こじ開けられた唇の隙間から、液体が注ぎ込まれる。それが先ほどの果実酒だと分かり、結衣はロイドの腕を外そうと抵抗した。
 ところが、引っ張っても叩いても、ロイドの腕はビクともしない。吐き出そうにも口を塞がれていて、それも叶わない。
 口中を満たした果実酒は、真っ直ぐに伸びた喉の奥へ、次々に流れ込んでいった。
 やがて、結衣が果実酒を飲み干すと、ロイドは唇を解放した。ひと息に飲まされた強い酒のせいで、結衣の頭はクラクラし始めた。
 ぼんやりとロイドを見つめる半開きの口の端から、果実酒が一滴溢れ、あごを伝って喉に一筋の赤い線を描いた。
「ったく、手間を取らせるな」
 面倒くさそうに言うロイドに、結衣は力なく反論する。
「ひどい……無理矢理飲ませるなんて……」
「おまえが素直に自分で飲まないからだ」
 そしてロイドは、思い出したようにクスリと笑った。
「あぁ、そういえば、口移しの方がいいって言ってたっけな」
「言ってないわよ」
 反論しながらロイドを叩こうとすると、座ったソファがグンと沈んだような気がした。ソファから転げ落ちそうな気がして、結衣は慌てて背もたれに背を預けた。
 じっとしているはずなのに、身体がグラグラ揺れているような気がする。
「もぉ〜バカぁ〜目が回るぅ〜」
 恨み言を言う結衣を、ロイドはおもしろそうに身を屈めて覗き込む。そして、先ほど口から溢れた酒の跡に気付いたらしい。
「なんだ、こぼしたのか。しょうがないな」
 ロイドはソファの背もたれに両手をついて、その間に結衣を閉じ込めた。焦点の合わないうつろな目で結衣が見上げると、ロイドは顔を近づけ、首筋に残る赤い跡を、唇と舌先でスッと拭った。
 一気に酔いが吹っ飛ぶような、背筋が粟立つ感覚に、結衣は思わず声を上げた。
「ひゃあぅ!」
 ロイドは慌てて顔を上げると、非難するような目で結衣を見る。
「なんだ、その色気のない声は」
「だって。首、ダメなのよ。美容院でこの辺を触られるのがイヤだから、髪を伸ばしてるようなもんだし。あなたのアレも本当は苦手なの」
「アレ?」
「癖なの? ほら、よく耳元でコソコソしゃべるじゃない。背中がゾクゾクするのよ」
「ふーん」
 ロイドは小刻みに頷きながら、ゆっくりと結衣の横に腰を下ろした。そして意地悪な笑みを浮かべると、指先でいきなり結衣の首筋をツッと撫でた。
「この辺か?」
「やめてったら!」
 結衣は両手で首をガードし、上半身をロイドの射程距離から遠ざけた。するとロイドは、無防備になった脇腹をつまんだ。
「こっちはどうだ?」
「きゃあ!」
 身をよじって背中を向けると、今度は背中の真ん中を指先が走った。
「こことか?」
「いやぁ!」
 悲鳴を上げて転げ回る結衣の身体を、ロイドはおもしろそうに指先であちこち、つつき回す。
 やがて、暴れて酔いの回った結衣が、動けなくなるほどヘトヘトになると、ロイドはつつくのを止めた。
「はぁ……意地悪……もう、許して……動けない……」
 ソファに横たわり荒い息を吐きながら、結衣が懇願すると、ロイドはクスクス笑った。
「そそられるセリフだな。だが、ポイントは押さえたから、今日のところは勘弁してやろう」
 ロイドは立ち上がり、リビングの隣にある寝室の扉を開いて戻って来た。そして、ぐったりとした結衣を抱き上げて運び、ベッドに横たえた。
「おやすみ」
 挨拶と共に額にキスをして、ロイドは寝室を出て行った。
 扉が閉まり部屋が暗くなった途端、急激に睡魔に襲われ、あっという間に結衣の意識は遠退いた。




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