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11.



 夜になり、夕食と風呂を終えた後、ロイドが酒ビンとグラスを持ってやって来た。ソファにどっかり座ると宣言する。
「今夜は飲むぞ。慰労会だ」
「え? 何の?」
「おまえが見事に殿下の代役を務めきった事のだ」
 見事と言われるほど大層な事は何もしていないが、ロイドは寂しさに沈みがちな結衣を元気づけようとしているのだろう。結衣は笑ってグラスを取った。
「うん。ありがとう」
「お疲れ」
 グラスの縁を合わせて乾杯すると、結衣は舐めるようにして、ほんの少し酒を飲む。最後の夜に酔っぱらって寝てしまうわけにはいかない。
 ロイドが注いでくれた琥珀色の酒は、どうやらブランデーのようだ。ほんのり干しぶどうの香りがする。
 結衣とは対照的に、ロイドはピッチが速い。グラス半分とはいえ、すでに一杯目を飲み干して、二杯目をグラスに注いだ。
 以前一緒に飲んだ時にも、顔色も変わらず酔ってるようには見えなかったので、元々酒に強いのかもしれない。
 ロイドはおもむろに立ち上がると、テラスから灰皿を持ち込んだ。そして部屋の隅にある机の引き出しからタバコを取り出すと、口にくわえて火をつけた。
 じっと見つめる結衣の視線に気付いて、今さらながら問いかける。
「煙、イヤか?」
「ううん。この香りは好きだから、いい」
「そうか」
 ロイドはタバコをくわえたまま、灰皿とタバコを持って、結衣の隣に戻ってきた。
「部屋の中で吸ってもいいの?」
「別に禁止はされていない。外の方が気持ちいいから、外で吸ってただけだ。思い出したようにしか吸わないしな」
 なぜ思い出したように吸いたくなるのか、未だに謎だ。結衣はそれについて少し考えてみた。そして、ふと思い至った。
 もしかしてロイドは、心が酷く乱れた時にタバコを吸うのではないだろうか。
 気分転換とか、気持ちを落ち着かせる効果があると、タバコを吸う人は言っていた。タバコを吸わない結衣は、煙の匂いに苛々して、よけいに気分が落ち着かなくなるのだが。
 最初に見たのは、結衣が東屋の穴に落ちそうになった日だ。ロイドは結衣に相当嫌われていると、勘違いしていた。次に見たのは、最初の異世界検索が中止になった夜。
 そして多分、今は――。
 本当は自分も平気ではないのに、結衣を元気づけようとしているロイドが、たまらなく愛しい。
 結衣はロイドの肩に頭をつけて、もたれかかった。
「なんだ、もう眠くなったのか?」
 ロイドが不服そうに問いかける。結衣は目を閉じて、少し笑みを浮かべた。
「違う。あなたに、くっついていたいの」
 からかうような調子で、ロイドが再び問いかける。
「欲情したのか?」
「そうかもね」
「……切り返しが、うまくなったな。なんか調子が狂う」
 不満げなロイドの声がおかしくて、結衣はクスリと笑った。
 しばらくの間そのまま、時々話をしながら酒を酌み交わした。
 ロイドはタバコを吸いながら、次々と酒を飲み、結衣がわずか二センチほどの酒をチビチビと舐めている間に、一瓶丸ごと空にした。
 タバコをもみ消すと「もう一本持ってくる」と言って、ロイドは席を立った。
 見た目は平気そうだが、かなり酔っているのではないかと、心配して見ていると、リビングの出口に向かうロイドの足取りは、全く普通と変わらない。それでも心配なので、一応忠告してみた。
「あんまり飲み過ぎない方がいいんじゃない?」
 ロイドがピタリと歩を止めた。立ち尽くしたまま、少し俯いて、肩が震えているように見える。
 結衣は慌てて立ち上がると、ロイドに歩み寄った。
「やっぱり酔ってたのね。大丈夫? 気持ち悪いの?」
 結衣が背中を撫でようと手を伸ばした時、ロイドがポツリとつぶやいた。
「酔ってない。素面(しらふ)でなんかいられるか。なのにちっとも酔えない」
 俯いたロイドの口から、(せき)を切ったように言葉がほとばしる。
「おまえが泣くのはイヤなんだ。だから、おまえを不安にさせないように、毅然としていようと思えば思うほど、心は平静でいられない。たとえ一分一秒でさえも、おまえがオレの手の届かない所へ行ってしまうなど、考えただけでも耐えられない。自分がこんなにも聞き分けのない子供だとは思わなかった」
 ロイドは振り返ると、思い切り結衣を抱きしめた。
「本当はおまえをニッポンに帰したくなんかない。ずっと側にいて欲しい。どうしようもなく、おまえが好きだ。愛してる」
 結衣の頬を涙が伝う。反して口元には笑みが浮かんだ。
「こめん、泣いちゃった。あんまり嬉しくて。でも、それって最初に言う言葉じゃない? あなた、いきなりキスなんだもの」
「そんな事誰が決めた。おまえの唇には、ついつい誘われるんだ」
「魔性の唇だものね。言わなくても分かったけど、どうして今まで言わなかったの?」
「おまえを悩ませたくなかった。だが、結婚しようと言っても揺るがなかったし、おまえの決意が固い事は分かった」
「だって、せっかくあなたが私のためにマシンを改造してくれたし、帰った方がいい事も分かってるもの」
「そうか」
 ロイドは少し間を置いて、しがみつくように結衣を抱きしめた。
「オレがもっと出来の悪い科学者ならよかったんだ。おまえをニッポンに帰す方法も、マシンの改造方法も分からなければ、おまえを帰さずに済んだのに」
 結衣はなだめるように、ロイドの背中をポンポン叩いた。
「弱気なあなたなんて、らしくないわ」
「今だけだ。明日には忘れろ」
 結衣はロイドを強く抱きしめ返した。
「忘れない。忘れたくない。消えない思い出を私に刻んで。決してあなたを忘れないように」
 顔を上げると、ロイドが真顔で見下ろしていた。結衣が微笑んで見つめると、ロイドは無言のまま結衣を抱き上げ、寝室に向かった。
 寝室に入り、結衣をベッドに横たえると、ロイドは一旦結衣の元を離れた。結衣は横向きに転がり、彼の姿を目で追う。
 終始無言のまま、ロイドは寝室の扉を閉め、再び結衣の元に戻ると、メガネを外して枕元に置き、ベッドの縁に腰掛けた。
 黙って見下ろすロイドを見上げながら、結衣の心は妙に落ち着いていた。
 ロイドは結衣の頬に片手を添えて、少し微笑んだ。その手が頬を滑り、首筋をたどると、結衣は思わず叫びそうになる声を飲み込み、身を硬くする。
 ロイドの手は首筋を通過して肩を掴むと、結衣の身体をゆっくりとベッドに押しつけた。
 結衣を見つめたまま、ロイドはゆっくり身体を倒し、覆い被さるようにして、優しく口づけた。一度唇を離すと、今度は激しく深く口づける。
 執拗なまでに激しく長い口づけに、結衣が息も絶え絶えになった頃、ロイドの身体が離れた。
 結衣が小刻みに息をつきながら目を開くと、ベッドに両手をついたロイドが、優しい表情で見下ろしていた。
「やっぱり今はもったいない。続きは今度だ。今日はもう寝ろ」
 そう言い残し、メガネをかけてベッドを離れ、部屋を出て行くロイドを、結衣はぼんやりと見送った。
 扉が閉じられる音を聞いて、結衣の中に沸々と怒りがこみ上げてきた。この期に及んで、また躱されたのだ。
(エロ学者のくせに、何? この寸止め!)
 結衣はベッドから跳ね起きると、叩くようにして寝室の扉を開け叫んだ。
「眠れるわけないじゃない! どうして?!」
 ソファに座り、新たに開けた酒をグラスに注ごうとしていたロイドは、驚いたようにこちらを向いた。
 最後の夜なのに……そう思うと涙が溢れ出した。
「ロイドがいい……あなたでなきゃイヤなの……」
 ロイドは酒ビンを置いて微笑むと、結衣に向かって手を差し伸べた。そして静かに命令する。
「来い」
 結衣は駆け寄り、ロイドにしがみつく。結衣の髪を撫でながら、ロイドは優しく諭すように言う。
「泣くな。オレもおまえがいい。もう、おまえでなきゃイヤだ。だが、それは今度だ」
「今度っていつ? 私、明日日本に帰るのよ」
「いつとは明言できない」
「……イヤ……!」
 結衣が涙声で益々しがみつくと、ロイドは少し間を置いて、小さくため息をついた。
「……ったく。突然会いに行って、驚かせてやろうと思ってたのに」
「え?」
 驚いて見上げると、ロイドは自嘲気味に笑った。
「いや、詭弁だな。本当はさっきまで、行くべきか迷ってた。おまえはニッポンに帰ると決めているし、遺跡の装置を徹底的に調べて、時空移動装置を完成させるつもりだ。だが、調査に手間取れば何年かかるかわからない。当てのないオレを待って、人生を犠牲にしろとは言えない。だからおまえに想いを告げるつもりはなかった。酔った勢いでおまえを抱いて、それを思い出に終わりにしようと思った。だが酔えないんだ。焦れば焦るほどおまえを手放したくなくなる。それで、つい暴露してしまった。自制できなかったって事は、実は酔ってるのかもしれないな。もう、ごまかしはきかない。必ず時空移動装置を完成させる。だから待ってろ」
「うん。だけど、どうして今度なの?」
 不思議そうに尋ねる結衣に、ロイドはイタズラっぽく笑う。
「馬は目の前に人参をぶら下げられると、よく走るんだ。食っちまったら満足して走らなくなる。言っただろう? 一分一秒でも、おまえを手放すのは耐えられない。オレは気の長い方じゃないんだ。そんなには待たせない。必ず近いうちに、おまえを迎えに行く」
 高らかに宣言して、ロイドは結衣を抱きしめた。
 今日で終わりじゃない。ロイドならきっと、すぐに迎えに来てくれる。そう思うと再び涙が溢れ、結衣はロイドの胸に頬を寄せた。
「うん。待ってる。あなたが出来の悪い科学者じゃなくてよかった。ねぇ、もう一度聞かせて」
 結衣のおねだりに、ロイドは耳元に顔を寄せる。
「愛してる」
 そして、こめかみにキスをした。
「その言葉、ずっと聞きたかった」
 耳元で囁かれるロイドの声に、背中がゾクリとしたが、それは不思議と心地よかった。



 一足先に王に挨拶を済ませ、ロイドの研究室に行くと、すでに皆が集まっていた。
 ロイドは人捜しマシンの設定中で、ローザンはメインコンピュータの時計を合わせている。王子とジレットは休憩コーナーの椅子に座って談笑し、ラクロット氏がその側に控えていた。
 人捜しマシンのガラスの筒に朝日が眩しく反射し、結衣は思わず目を細める。
 部屋に入ってきた結衣に気付いて、王子が立ち上がって手を振った。結衣が側に行くと、ジレットも席を立った。
「おかえり。父上にまた、結婚の事言われなかった?」
 おもしろそうに尋ねる王子に、結衣はうんざりしたように、ため息をついた。
「言われたわよ。次に来た時は具体的に式の日取りを決めようって。なんか急がせるのよ。なんでなの?」
 どうやらロイドが結衣を迎えに行く事は、すでに周知の事実らしい。
 王子はクスクス笑いながら教えてくれた。
「ロイドの部屋に三泊したからだよ。月足らずの子供が生まれるかもしれないから、お腹が目立つ前に式を挙げた方がいいって言ってたよ」
 結衣は目を見開いて、絶句した。どんどん顔が熱くなってくる。
「絶対、あり得ないから!」
 結衣が力一杯否定すると、王子は意味ありげな目で結衣を見つめる。
「ふーん。そう?」
「そうよ!」
 いくら勘繰られても、あり得ないものはあり得ない。キスでは子供が出来ない事くらい、結衣も知っている。
 結衣は気を取り直して、ジレットに声をかけた。
「ジレット。こんなエロ男たちは抜きにして、また女同士でおしゃべりしましょう」
「はい。またお会いできる日を楽しみにしていますわ」
 ジレットは可憐な笑顔を見せた。結衣は続いてラクロット氏に右手を差し出す。
「ラクロットさん。色々お世話になりました」
 ラクロット氏は軽く頭を下げて、結衣の手を握り返した。
「いえ、こちらこそ無理なお願いを聞いていただいてありがとうございました」
 むこうからロイドが大声で呼んだ。
「ユイ、そろそろ準備しろ」
「うん」
 人捜しマシンの側まで行くと、ローザンが立ち上がり、笑顔で右手を差し出した。
「ユイさん。お疲れ様でした」
「ローザンも、関係ない事手伝わされて、お疲れ様。それに色々ありがとう」
 結衣は手を握り返し、ポケットから以前もらった薬の袋を出して見せた。
「これ、ありがとう。ゆうべ服用しようかと思っちゃった」
「え? いじめられたんですか?」
 ローザンは困惑した表情で、結衣を見つめる。心なしか頬を赤らめているようだ。
「ちょっと、何か勘違いしてるでしょう」
 結衣が目を細くして軽く睨むと、ローザンは頭をかいて照れくさそうに笑った。
「いやぁ、ユイさんも最近、鋭くなってきましたね」
「もう! ここの男共ときたら!」
 結衣が呆れてため息をつくと、ロイドが横からローザンの肩を叩いた。
「ほら、おまえはさっさと配置に付け」
「はい」
 ローザンは返事をして、メインコンピュータの前に座った。
「ユイ。おまえはこっちだ」
 ロイドに促され、結衣はロイドに続き、ガラスの筒の中に入った。
 およそ一ヶ月前、この中で初めてロイドに会った。横柄で強引でセクハラな、第一印象最悪の奴を、まさかこんなに好きになるとは思ってもみなかった。
 ロイドは中央まで来ると、そこに結衣を立たせた。
「転送直前に酷く眩しくなるが、あまり派手に動くなよ」
「うん」
 結衣は電源を切ったままの小鳥を、ロイドに差し出した。
「この子をお願い」
「あぁ。預かっとく」
 受け取った小鳥をポケットに収めると、ロイドは結衣を抱きしめた。
「ちょっ……!」
 結衣が慌てて筒の外に目を向けると、王子がジレットを促して、二人でクルリと背を向けた。ラクロット氏は静かに目を伏せている。ローザンはコンピュータ画面を凝視していた。
「必ず迎えに行く。待ってろ」
「うん」
 結衣は微笑んで頷いた。
「ロイドさん。同期開始一分前です」
 ローザンのカウントダウンが始まった。
 ロイドはもう一度、結衣を強く抱きしめ、頬に素早く口づけると、早足でガラスの筒を出て行った。そして、手際よく筒の出入口を閉じる。
「三十秒前です」
 ロイドがコントロールパネルの前に立ち操作を始めると、王子とジレットがこちらを向いた。
「二十秒前です」
 頭の上でライトが灯った。ロイドは尚も操作を続ける。
「十秒前です」
 ロイドの動きが止まった途端、人捜しマシンがヴンと低くうなった。足元に小刻みな振動が伝わる。
「五秒前……四……三……二……一……開始」
 マシンが一際高くうなり、足元の振動も大きくなった。結衣の周りを徐々に光が包み始める。
 筒の外に目を向けると、ローザンが笑顔で軽く手を振った。ジレットが愛らしく微笑んで会釈する。王子は大きく手を振っている。ラクロット氏は静かに頭を下げた。
 そして筒のすぐ側で、ロイドが淡く微笑みながら、熱い眼差しを送っていた。結衣はそれを見つめ返す。
 もっとずっと見ていたいのに、周りの光が強さを増して、ロイドの姿を白く覆い隠した。
 あまりの眩しさに、結衣は目を開けていられなくなり、両手で顔を覆う。
 いつの間にか、涙が溢れていた事に気付いた。




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