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5.



 翌朝、ロイドはいつもと変わりなく、朝食を済ませると、挨拶のキスをして仕事に出かけた。
 朝食の後片付けと一階の掃除はランシュがしてくれるというので、結衣は開店までにケーキを作る事にした。
 いつもはこの時間に、後片付けと掃除洗濯をするので、そんな余裕はないのだが、ランシュが手伝ってくれると余裕ができる。
 結衣は二階に上がり、洗濯機をセットして掃除を始めた。掃除をしながら、ゆうべのロイドを思い浮かべる。
 ロイドは結衣にしがみついて、しばらくの間「愛してる」を繰り返し、やがてそのまま眠りについた。
 あんな風にロイドが結衣に縋るのは、結婚してからは初めてだ。
 思い返せば、王子が異世界に飛ばされたかもしれないと分かった時や、王子が見つかって結衣が日本に帰る前日など、いずれも心に大きな不安を抱えている時、ロイドは結衣に縋った。
 今回も何か不安を抱えているのだろう。けれど、結衣には話さない。
 ランシュが来るまで、ロイドは何も変わりはなかった。結衣に話せないという事は、ランシュに関係する、科学技術局がらみの事かもしれない。
 不安や悩みは、誰かに話せば、たとえ解決しなくても、少しは気が楽になる。
 自分がその誰かになれない事が、もどかしかった。
 ロイドは局長なので、部下に愚痴を聞かせるわけにはいかないだろう。きっと科学技術局内にも、そういう事を話せる相手がいないはずだ。
 ひとりで抱え込まなければならないロイドを思うと、胸が痛んだ。
 掃除が終わると、少しして洗濯機が終了のアラームを鳴らした。結衣は洗濯物を持ってバルコニーへ出た。
 洗濯機には乾燥機能も付いている。日本のものよりも、衣類を傷めず短時間で乾くのだが、やはり天気のいい日は天日干ししたい。
 それに、ロイドに抱きしめられた時、シャツにこもったお日様の匂いに包まれると、なんだか温かくて、ほんわりと幸せな気分になる。それが結衣の密かな楽しみのひとつだった。
 洗濯物を干し終えて階段を下りようとした時、丁度やってきたランシュが階下から呼んだ。
「ユイ、誰か来たよ」
「あ、多分、配達の人だ」
 ケーキの材料となる小麦粉や卵、牛乳、フルーツなど、重いものはまとめて配達してもらう事にしてある。
 結衣は慌てて、階段を駆け下りた。
 丁度三分の二ほど下りた時、あまりに慌てていたせいか、足を踏み外してしまった。
「きゃっ!」
「あぶない!」
 結衣の身体が宙に浮き、尻餅をつきそうになった瞬間、ランシュの腕の中に抱き止められていた。
「大丈夫?」
「うん。ありがとう」
 結衣が礼を述べると、ランシュは耳元でため息を吐き出すように、安堵の声を漏らした。
「よかった」
(あれ……?)
 ふと違和感を覚えた。だが、なんだか分からない。
 ランシュに抱き起こされ、残りの数段を下りる。ランシュは安心したようににっこり笑った。
「ユイにケガさせたら、先生に恨まれるからね」
 違和感がなんなのかは、やはり分からない。
 結衣は曖昧に笑みを返して、店先で待っている配達員のところへ向かった。



 配達された荷物をランシュにキッチンへ運んでもらい、結衣は早速追加分のケーキを作り始めた。
 ランシュは入口に立って、その様子を興味深そうに眺めている。
 追加分は比較的短時間で作れる、シフォンケーキにした。ロイドなら軽く三個は一度に食べてしまう。
 卵白を泡立ててメレンゲを作りながら、結衣はランシュに問いかけた。
「ランシュも甘いものは好きなの?」
「先生ほど極端じゃないけど、割と好きだよ」
 医学博士の称号を持つ王宮医師のローザンも、結構甘いもの好きだ。
「学者さんって甘いもの好きが多いのかな?」
「どうして?」
「ロイドが”オレの超優秀な頭脳は人並み以上に糖分を必要とするんだ”って言ってたの」
 結衣がそう言うと、ランシュはおもしろそうにクスクス笑った。
「確かに。うんと頭を使ったら、甘いもの欲しくなるけどね。でも副局長は苦手だって言ってたよ。女性にしては珍しいよね」
「え? 副局長って女の人だったの?」
 結衣が思わず手を止めて尋ねると、ランシュは意外そうに目を見開いた。
「知らなかった?」
「うん。ロイドがよく怒られたとか、苦手だとか言ってるから、てっきり年配の男の人かと思ってた。だってロイド、女好きだって言ってたし」
「ふーん」
 ランシュは少し目を細め、探るように結衣を見つめた。
「気になる?」
「え……別に……」
 言い淀む結衣に、ランシュは少し意地悪な笑みを浮かべて言う。
「副局長って、スタイル抜群の美女だよ。見た目だけなら、モロ先生の好み」
「……え……」
 反応を伺うように、ランシュは結衣を真っ直ぐ見つめる。気にならないと言えば嘘になるが、どう反応していいか分からず、結衣はメレンゲをガシガシ泡立てながら、唐突に話題を変えた。
「あ、そうだ、ランシュ。お願いがあるの」
「お願い?」
「うん。ロイドの相談に乗ってあげて欲しいの。何か悩んでるみたいなんだけど、私には話せないみたいで……。仕事の事かもしれないから、ランシュなら助手だし、局の事も話せるんじゃないかと思って」
 上手く話を逸らせたと思ったのに、ランシュは笑いながら答えた。
「仕事の事なら、下っ端のオレより、副局長に話すんじゃないかな。苦手だって言ってるけど、先生って局内じゃ副局長を一番信頼してるし」
「そう……」
 結衣は力なく俯いた。自然に泡立て器を握る手が止まる。
 ロイドの浮気を、心配しているわけじゃない。ロイドに愛されている事は、充分に分かっている。
 けれどロイドのそばには、彼の仕事を理解し、悩みを分かち合える才色兼備のひとがいる。ロイドの妻には、そういう人の方が、自分よりふさわしいのではないだろうかと思う。
 本来なら妻である自分が、共に悩みを分かち合い、支えになるべきなのに、それができない。
 王子失踪事件の時も、機械の事もクランベールの文字も分からず、ロイドの手助けになるような事が、結衣には何も出来なかった。
 今ではクランベールの習慣も文字も覚えたけれど、相変わらず何の力にもなれない自分が情けなくなった。
 少し泣きそうな気分になっていると、ランシュがそっと頬に手を触れた。
「ユイ、そんな顔しないで。ごめんね。ちょっと意地悪し過ぎちゃったね。大丈夫。先生は確かに女好きだけど、オレの知ってる限りじゃ、局内の女性に手をつけた事は一度もないよ」
 それはそれで、結構意外だ。初対面の結衣に、出会ったその日のうちに強引にキスしたエロ学者なのに。
 結衣は顔を上げて、ランシュを見つめた。
「そうなの?」
「うん。オレ、子供の頃から先生と付き合いがあるから間違いないよ。黙ってりゃモテるんだけど、エロい事言うから、女性に敬遠されるみたい」
 結衣は思わずクスリと笑う。
「どっちにしろ、オレも今は部外者だし、あまり力にはなれないよ。先生の好きなお菓子を作ってユイが励ましてあげたら? ユイのお菓子は見てるだけでも幸せな気分になるって、おばあちゃんも言ってたし」
 ランシュは頬に当てた手を下ろし、結衣の肩をポンと叩いて微笑んだ。
 結衣も微笑み返す。
「うん。そうする」
 結局自分には、それしかないようだ。
 再びメレンゲを泡立て始めた結衣を見つめて、ランシュがポツリと言う。
「ユイは、優しいね」
「そう?」
「ユイのそういうところ、オレも好きだな」
「ありがとう」
 気落ちした結衣を、自分が落ち込ませたと思って、ランシュはなんとか慰めようとしているのだろう。
 結衣がロイドのために何もできないのは、ランシュのせいではないし、それを再認識して落ち込んでいるのも、結衣の勝手だ。
 ランシュの気遣いに礼を述べて、結衣は笑顔を向ける。
 するとランシュは、結衣の耳元で一言囁いた。
「今の言葉、先生には内緒ね」
(あ……まただ……)
 再び襲われた違和感の正体を、結衣は悟る。
 耳元で囁かれた時、ロイドとランシュでは感覚が違うのだ。ロイドの時は背筋がゾクゾクするのに、ランシュの時はそれがない。
 相手に対する自分の気持ちが違うから? そうじゃない。ローザンの時もゾクゾクした。
 違いが何なのか考えて、ふと思い至った。
 ランシュを見つめたまま、またしても動きの止まった結衣を、ランシュは不思議そうに見つめ返す。
「どうかした?」
「ううん。なんでもない」
 自分で出した結論に、自分で首を振る。そんな事はあり得ない。
 馬鹿げた結論を頭の隅に追いやって、結衣は一心不乱にメレンゲをかき混ぜた。




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