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7.



「ロイド、起きて」
 寝室の扉が開き、ユイの呼ぶ声が聞こえた。いつもは階下から大声で呼ぶのに、どういうわけか今朝は、部屋まで呼びに来たようだ。
 元々、甘い香りで目を覚まし、目を閉じたまま頭の中に浮かんでくる、とりとめもない事をぼんやりと追いかけながらゴロゴロしていただけだ。
 ロイドは身体を起こし、枕元に置いてあったメガネをかけて、入口に立つユイを見た。
「おはよう。どうした? 部屋まで来るなんて」
 壁の時計を見ると、いつもより十分は早い。
「おはよう。ちょっと話したい事があって……」
 ユイは曖昧な笑みを浮かべて歩み寄り、ベッドの縁に腰掛けた。
 あまりゆっくり話している時間はない。今朝はソータをニッポンに連れて帰らなければならないのだ。
 科学技術局の一般見学時間が来る前に、転送を終了しないと、ある意味見せ物になってしまう。それはソータもイヤだろう。
「すぐに終わる話か?」
「うーん……」
 ロイドが尋ねると、ユイは困ったように言葉を濁す。
「悪いが、込み入った話なら今夜じゃダメか? おまえ明日は休みだろう? なるべく早く帰るから」
 ユイは途端に首を振った。
「ううん。別に急いで話さなきゃならない事でもないから。忙しいなら無理しないで」
 言ってる事が矛盾している。すぐにでも話したいから、わざわざ起こしに来たのではないだろうか。
 ロイドはユイを抱き寄せ、頭を撫でた。
「オレに遠慮するな」
「遠慮じゃなくて、迷惑になりたくないの。だって私、あなたが忙しくても、悩んでいても、何も力になれないから」
 切なげに目を伏せて俯いたユイのこめかみに、ロイドは軽く口づける。
「そんな事はない。おまえほどオレの力になってる奴はいないぞ。オレは何度となくおまえに救われたんだ」
「何も出来なくても?」
「おまえが笑顔でオレの側にいてくれたら、それだけで充分力になる」
「いるだけでいいなんて、そんなのイヤ」
 ユイはプクッと頬を膨らませて顔を背けた。ロイドはその頬に手を添えて、背けた顔をこちらに向かせる。
「そうだな。もっとわがまま言って甘えてくれたら、更に嬉しいけどな」
「え? わがままが嬉しいの?」
「おまえ、昔からオレに迷惑かけないようにって気を遣いすぎた。もっと貪欲にオレを欲しがれ」
「……え……」
 ユイは苦笑に顔を引きつらせた。
「なんか、あなたが言うとエロく聞こえるんだけど……」
 ロイドはニヤリと笑い、ユイを抱きしめる。
「もちろん、そっちの要求も大歓迎だ。やっぱり今夜は早く帰るぞ」
「うん、嬉しい。でも本当に無理しないでね」
「言った端から遠慮するな」
 ロイドが額を叩くと、ユイは舌を出してクスリと笑った。
「ごめん。じゃあ、わがまま言うわ。早く帰ってきてね」
「あぁ」
 ユイのわがままに目を細め、ロイドは静かに口づけた。



 ロイドが蒼太を連れて仕事に出かけ、またランシュと二人きりの昼間が戻って来た。
 マカロンが掃除をしてくれるようになったので、結衣は今までより多くのお菓子が作れるようになり、一日に受け付ける予約数も二つまでに増やした。
 ランシュも掃除をしなくてよくなった。これまでは蒼太の相手をしてもらっていたが、今日からはヒマになる。お菓子作りを手伝うよりは、機械いじりをしている方が楽しそうなので、ロイドに何かやる事がないか訊いておいた。
 とりあえず今日のところは何もないので、ランシュには店の陳列ケースの拭き掃除をお願いした。
 久しぶりにロイドが早く帰ってくると思うと、なんだかウキウキそわそわしてしまう。
 それが顔に出ていたらしく、ランシュが笑いながら指摘した。
「なんか楽しそうだね、ユイ」
「え? そう? そんな風に見える?」
 とぼけてみせると、ランシュが吹き出した。
「だって、ずっと顔がニヤけてるもん。バレバレだよ。何かいい事あったの?」
 バレバレなら仕方ない。益々笑われるかもしれないが、結衣はおずおずと白状した。
「些細な事なんだけどね、今夜はロイドが早く帰ってくるの」
「ふーん。そうなんだ。久しぶりだもんね、先生が早く帰ってくるの」
「うん」
 結衣は笑顔で頷く。するとランシュは、結衣を見つめて淡い笑みを浮かべた。
「たったそれだけの事で、ユイはウキウキするほど嬉しいんだね。ソータが言った通り、確かにラブラブ夫婦だよ。オレとしては、ちょっと妬けるな」
「え?」
 結衣が不思議そうに見つめ返すと、ランシュはごまかすように笑った。
「オレにはそこまで想ってくれる人いないしね」
「年上の彼女に告白したら?」
 結衣の提言に、ランシュは再び意味ありげな笑みを浮かべる。
「本当にそんな事していいの?」
「全然大丈夫よ! ランシュは見た目もカッコイイし、優しくて親切だし、何より笑顔が素敵だもの」
 拳を握って力説する結衣に、ランシュはプッと吹き出した。
「それ、見た目がカッコイイ以外は、全部ユイの事だよ。おばあちゃんがユイの事そう言ってたんだ。”笑顔が素敵な、親切で優しいお嬢さん”だって」
「そんな事、言ってたの?」
 特に褒められるような事は何もしていないので、なんとなく照れくさい。
 ランシュに尋ねると、ベルが店に来た時、入口の石段を上がるのに必ず手を貸していたからだという。
 店は元々玄関だった。あまり手をかけて改装するとお金もかかるので、元々あった石段はそのままにしてあった。
 けれどベルがやって来て、その時初めて、お客様の事を考えて改装するべきだったと後悔した。わずか数段の石段も、杖をついたお年寄りには、結構な負担になるのだ。
「最初から毎回、わざわざ店の奥から出てきて手を貸してくれるって、おばあちゃん感心してたよ」
「そんな……。大変そうだったから、当たり前の事だもの」
「当たり前の事でも出来ない人が多いんだから、ちゃんと出来るユイはエライよ。オレだったら気になっても見てるだけかもしれない」
「そんな事ないでしょう? ランシュは優しいもの」
「ありがとう」
 ランシュは、はにかむように笑った。



 じりじりとゆっくり、時間が過ぎていく。ロイドの帰りを、いかに待ちわびているかを実感する。
 ようやく閉店時間になり、結衣は店を閉めて家の中に戻った。
 リビングに入った途端、電話が鳴り響く。慌てて駆け寄り、液晶画面に表示された相手先を見てギクリとした。
 科学技術局――。
 一瞬にして、嫌な予感が胸の中を支配する。結衣はためらいがちに応答ボタンを押した。
 画面に映し出されたロイドが、いきなり頭を下げる。
「すまない、ユイ。早く帰れなくなった」
 急な来客で接待が入り、帰りはいつになるか分からないという。
 申し訳なさそうに何度も謝るロイドの少し後ろに、スーツ姿の凛とした金髪の美しい女性が立っているのが見えた。
 無表情にロイドの背中を見つめる、理知的なブルーの瞳。彼女がおそらく副局長なのだろう。
 ロイドの謝罪を上の空に聞きながら、結衣の胸の中にモヤモヤとした感情がこみ上げてくる。
 結衣は微笑むと、自分でも驚くほど冷静な声で、ロイドに答えた。
「大丈夫よ。お仕事なんだから、頑張ってね」
「ユイ……」
 ロイドは一瞬呆然としたように見つめた後、振り返って後ろの女性に怒鳴った。
「おい、フェティ! オレは明日休むぞ!」
 女性は眉をつり上げて、怒鳴り返す。
「何、勝手な事を言ってるんですか!」
「オレは一月近く休んでないんだ! 邪魔するなら労働基準局に訴えるぞ!」
「私だって、あなたの補佐で休んでいません!」
 ロイドの補佐という事は、彼女はやはり副局長なのだ。
 二人の怒鳴り合いが、自分とロイドの距離を、引き離していくように感じた。別に仲良くしているわけでもないのに、これ以上見ていたくない。
 そう思った結衣は、思わず大きな声でロイドを制した。
「ロイド! 本当に気にしなくていいから! 局長なのに、迷惑かけちゃダメよ」
 二人はピタリと怒鳴り合いを止め、同時にこちらを向く。
 副局長と思われる女性が、片手でロイドを脇に押しやり、電話の前にやってきた。
 画面の前で彼女は、先ほどとは打って変わって、柔和な笑みを浮かべ結衣を見つめる。
「初めまして。副局長のフェティ=クリネと申します」
「おまえ、何を勝手に……!」
 文句を言いながら肩を掴んだロイドの手を、強引に振りほどき、副局長は言葉を続けた。
「本日は急な用向きで、ご予定を狂わせてしまって申し訳ありません」
 ロイドが最も信頼し、片腕となっているだけあって、その堂々とした様子に、結衣は少したじろぐ。
「いえ、特にどうしてもという用事があったわけじゃありませんし。いつもロイドが迷惑をかけてすみません。どうかよろしくお願いします」
 結衣がそう言うと、副局長はにっこり微笑んだ。
「いえ、こちらこそ、目の前で旦那様を怒鳴りつけて申し訳ありませんでした。奥様が寛大かつ聡明な方で助かります。それでは」
「あっ! こらっ!」
 ロイドが再び副局長の肩を掴んだ時、電話の画面は唐突に消えた。
 結衣は大きくため息をつきながら、力が抜けたようにソファに座った。テーブルの上の小鳥を取り、電源を入れて頭を撫で始める。
 あの二人は、電話を切った後も、しばらく怒鳴り合っているような気がする。
「先生、早く帰れなくなったんだね」
 隣に座っていたランシュが、心配そうに声をかけてきた。
「うん……」
 元々結衣のわがままで、忙しいのに無理して、早く帰ろうとしていたのだ。
 予定が狂う事はあらかじめ考えておくべきだったのに、朝から手放しで浮かれていた分、奈落の底にたたき落とされたように落胆は大きい。
 初めて目にした、職場でのロイドと副局長の様子が、それに拍車をかける。
 自分は何も出来ないのに、彼女は側にいて、常にロイドを支えている。そこに恋愛感情がなくても、たまらなく彼女がうらやましい。
 こみ上げてくる嫌な感情に胸が詰まりそうになり、必死に堪えていても涙が溢れてきた。
 俯いて小鳥を撫でる手の甲に、ポタリと一滴落ちた時、横からランシュにフワリと抱きしめられた。
 思わず横を向くと、目の前で切なげに見つめるランシュの瞳と、視線がぶつかった。
「ユイが泣いているの耐えられない。オレ、ユイが好きだから」
「え?」
 思いも寄らないランシュの言葉に、涙も、こみ上げていた感情も、一気に停止する。
 好きってどういう意味? ただそれだけの事が聞き返せず、結衣は固まったまま、ランシュを見つめる事しかできなかった。




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