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8. まるで時が止まったかのように、二人して黙ったまま見つめ合った。 リビングの大きな窓から差し込む、午後の柔らかな日射しが、ランシュの髪をキラキラと眩しく縁取る。まるで天使の後光のようだと、全く関係ない事を結衣は思っていた。 ランシュは結衣が、ロイドの妻だと知っている。好きだと言っても、深い意味はないのかもしれない。 けれどロイドは、ヤキモチを焼いていた。もしかしてロイドは、ランシュの気持ちを知っていたのだろうか。だからランシュに冷たい態度を取り、気を許すなと忠告したのだろうか。 憶測では結論が出ない。ランシュに直接、どういう意味なのか確かめなければ。 「あ、あの……」 結衣が意を決して口を開くと、ランシュはそれを遮るように更に抱き寄せ、耳元で囁いた。 「ずっと好きだったんだ。ユイが結婚してるなんて知らなかったから」 どうやら、軽い意味ではないらしい。 確かにランシュが結衣の結婚を知ったのは、店先でロイドと鉢合わせした、あの日だ。 ベルが亡くなって居場所のなくなったランシュに、結衣はしばらく、うちにいたらどうかと提案した。 最初ランシュは酷くうろたえた。今思えば、結衣を未婚だと思っていたのなら当然だろう。 結衣の方は、単に遠慮しているものと思っていた。 「主人に相談してみないと分からないけど、多分大丈夫よ。あの人、面倒見のいい人だから」 結衣がそう告げると、一気にトーンダウンしたランシュの、苦笑にも似た複雑な表情が思い出される。 ランシュが好きな年上の女性とは、自分の事だったのだ。 ランシュは結衣を抱きしめたまま、言葉を続ける。 「おばあちゃんからユイのことを聞いて、会ってみたくなったんだ。ユイはいつも笑顔で迎えてくれて、おばあちゃんの事をちゃんと覚えてて心配してくれたし、おばあちゃんの言った通りの人だった。通ってる内にどんどん好きになってた。おばあちゃんが亡くなった後、家を出てしばらく街をうろついていたけど、ユイに会いたくなって、気が付いたら、ここに来てた」 どんな気持ちだったんだろう。自分の想いを寄せる人が、すでに他人のものだと知った時。 いつもロイドにニブイと言われていたが、今までそれを、これほど残酷な事だと思った事はなかった。 ランシュの気持ちに気付かず、軽い気持ちで彼を好きだと言ったり、目の前でロイドとキスをしたり、ロイドの事で浮かれたり、知らず知らずに傷つけていた。 行く当てのないランシュは、見ているのが辛くても、出て行く事ができないのに。 そしてまた、彼の気持ちを知った上で、もう一度傷つけなければならない。ランシュの想いに応える事はできないから。 「ランシュ……」 結衣がランシュの胸に手を当て、身体を押し戻そうとするが、ランシュはそれを許さなかった。 「ずっと黙っているつもりだった。話したらユイを困らせるし、ユイが幸せに笑っていてくれるなら、それでいいと思ってた。だけど、こんな風に泣いているとたまらなくて……」 抱きしめるランシュの腕に、一層力が加わる。 「オレじゃダメ?」 ドキリとして、身体がピクリと震えた。ランシュにも結衣が受け入れられない事は分かっているだろう。ここまで追い詰めたのは、自分の責任だ。 結衣は静かに口を開いた。 「ごめんね、ランシュ。私、全然気付いてなかった。ランシュの気持ちも知らずに、自分の事に手一杯で、ランシュの優しさに甘えて傷つけてたのね。こんな自分勝手な私を、好きになってくれてありがとう。だけど私、ロイドじゃなきゃダメなの」 ランシュの肩が一瞬、ピクリと震えた。耳元で消え入るような、か細い声がつぶやく。 「どうして……」 次の瞬間、ランシュは結衣をソファに押し倒した。 小さな悲鳴を上げて、結衣はソファに背中を付けた。慌てて起き上がろうとするが、ランシュが両肩を掴んでソファに押さえつけ、身体が起こせない。 ランシュの腕を掴んで外そうとしたが、ビクともしなかった。 ランシュは結衣を見下ろしながら、憤りをぶつけた。 「どうして?! 先生は冷酷な人だよ。オレは二年前、寿命が尽きかけていた。それを知っていながら、オレが残りの命全てをかけて完成させようとしていた開発を途中で奪った。オレを免職にしたのは、あの人なんだ!」 ランシュが命をかけて完成させようとしていた開発。それは以前少し聞いた、究極のヒューマノイド・ロボットだろう。 自分で考え行動し、感情を持ったロボット。そして絶対命令がインプットされていない。 違法となるそれを、科学技術局の局長であるロイドが、許可するわけはない。 ランシュは止められても、開発を止めなかったのだろう。なにしろ命が尽きる前に、夢を実現したかったのだから。 ロイドはランシュを止めるために、免職にしたのだ。 「多分オレじゃなくて、ユイだったとしても、先生は同じ事をするよ」 冷たい瞳で見つめるランシュに、結衣は少し笑って頷いた。 「うん、知ってる。ロイドはそういう人よ。頑固で職務に忠実で、絶対誰にも言わないからって言っても、私には局の事を一切話さないの。私だけ例外にはならないと思う。だから私は、ロイドが局の事で悩んでいても、何の力にもなれない。それが悔しくて、時々落ち込んだり、泣いちゃったりするけど、それはロイドのせいじゃないし、それでもロイドを愛しているの」 ランシュは辛そうに顔を歪めて、絞り出すように言う。 「泣かされてもいいなんて、そんなの分からないよ」 そして結衣の上に覆い被さってきた。 「オレを見てよ、ユイ」 「ダメ! ランシュ、やめて!」 近付いて来るランシュの顔から、思い切り顔を背け、結衣がギュッと目を閉じた時、ランシュが手を離して声を上げた。 「いたっ!」 結衣が目を開き身体を起こすと、目の前でランシュが頭を抱えるようにしてうずくまっていた。その後頭部で小鳥が羽ばたきながら、ランシュをつついている。 「やめて、ロイド! ランシュを傷つけないで!」 結衣の命令に、小鳥はピッと返事をして攻撃を止めると、机の上に舞い降りた。 「大丈夫? ランシュ」 「うん……」 ランシュは小鳥がつついた頭を少し撫でて、その手を眺めた。指先にポツンと赤いものが付着している。 「血が出てるの? ごめんね。手当てしなきゃ」 結衣が慌ててランシュの頭に手を伸ばすと、ランシュは身を退いて力なく笑った。 「平気だよ、このくらい。自業自得だし。オレの方こそ、ごめんね。最初からユイがオレに振り向く事はないって、わかってたのに。オレがユイを泣かせるところだった。本当にごめん。全部忘れて」 そう言ってランシュは席を立った。 「少し頭を冷やして、今後の事を考えるよ」 「今後って?」 結衣も立ち上がって尋ねる。 ランシュは結衣の前を素通りして、リビングを横切りながら答えた。 「だって、オレと一緒に住むのイヤでしょ?」 「出て行くの? カードが使えないのに、困るでしょう?」 結衣は咄嗟に、ランシュの腕を掴んだ。立ち止まったランシュは、皮肉な笑みを浮かべる。 「カードがなくてもオレは簡単に死なないんだ。さっきので分かったんじゃない? オレには元々、人を好きになる資格なんてないんだよ」 ランシュは結衣の腕をほどき、先ほど血のついた手の平を見せて笑った。 「よく出来てるでしょ?」 言葉もなく見つめる結衣に背を向けて、ランシュはリビングを出て行った。 |
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