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9.



 ハッとして目覚めると、結衣はベッドの上にいた。隣ではロイドが、結衣を抱えるようにして静かに寝息を立てている。
 外はまだ暗い。
 結衣はロイドの腕の中から這い出して、枕元の時計を取った。時刻は三時半を少し回っている。いつも起きる時間よりは、少し早い。
 ゆうべロイドの帰りを待って、リビングで本を読みながら、ウトウトしたのは覚えている。そのまま眠ってしまったのを、ロイドが運んでくれたのだろう。
 ランシュはあれから、夕食もいらないと言って、部屋にこもったまま一度も出て来ない。
 結衣がイヤだろうからと、ランシュは家を出ていくつもりでいるらしい。
 結衣自身はイヤではない。想いに応える事は出来ないが、ランシュの事は弟や友達のような意味で好きだ。こんな風に気まずいままで、別れたくはない。
 なにより、身を隠さなければならないランシュが、行く当てもない上に、カードも使えない状態で出て行って、この先どうするつもりなのか、それが心配だった。
 ふと不安に駆られて、結衣はベッドを抜け出した。
 自分やロイドが寝静まった後、ランシュがコッソリ家を出ていったのではないかと気になったのだ。
 結衣は寝室を出ると、足音を忍ばせて、ランシュの部屋へ向かった。
 そっと扉を開けて、中の様子を窺う。ベッドの上にランシュの姿を認めて、結衣はホッと息をついた。再びそっと扉を閉じる。
 結衣はランシュがずっといてくれても一向にかまわないが、ランシュ本人は気持ちの整理がつくまでは辛いかもしれない。
 ロイドと仲違いしている理由も分かった。やはり一刻も早く、ロイドに相談するべきだろう。
 ランシュの想いは伏せておくとして、出て行くにしても、ロイドとの和解や、この先の生活について、なんの糸口も見えないままで、彼が出て行くのは心配でならない。
 たとえランシュが簡単に死ぬ事がないとしても、彼には結衣と同じ心があるのだから。
 少なくとも結衣にはそう見える。
 人は、食べて、呼吸して、それだけで生きているわけではないから。
 今から二度寝したら、絶対寝過ごしてしまう。結衣は自室に入り、身支度を整えて階下へ下りた。



 いつもより早く起きてしまったのに、今日は休みなので店に並べるケーキを作らなくていい。
 味噌汁に入れる野菜を花の形に切ってみたり、余計な手間をかけながら、ゆっくりと朝食の支度をしていると、空が白み始めた。
 すっかり夜も明けた頃、結衣がのんびりと朝食の支度をしているキッチンに、ランシュがやってきた。
 いつもと変わりなく挨拶をして、手伝う事はないかと尋ねる。
「休みなのに早く目が覚めちゃって、もう終わったの。座ってて。お茶淹れるから」
 結衣がそう言うと、ランシュはクスリと笑った。
「ユイは変わらないね。オレが飲んだり食べたりする必要ないって分かってるのに、お茶淹れてくれるんだ。ゆうべも夕食の心配してたし、ケガの手当をしようとするし。もっと怖がったり戸惑ったりするかと思った」
「だってランシュは変わってないもの。元々怖くないのに、怖がりようがないわよ」
「ふーん」
 ランシュは少し間を置いて、意地悪な笑みを浮かべた。
「でもオレの能力の限界値を知ったら、怖くなるかもしれないよ。分かってるだろうけど、オレには絶対命令がないしね」
「無駄よ。私を怖がらせて、出て行ってって言わせようとしてるでしょ。絶対命令なんかなくったって、ランシュが人を傷つける事はないって知ってるもの」
「どうして、そう言いきれるの?」
「ランシュには心があるから」
 結衣がキッパリと言い切ると、ランシュは一瞬目を見開き、そして悲しそうな笑顔を見せた。
「あるのかな。オレにもよく分からない」
 ランシュは今の自分の心や気持ちが、本当に自分のものなのか分からないと漏らした事があった。
 かつてロイドが言っていた事を思い出す。


『こちらのアクションに対して、いくら表情豊かに反応を返しても、それは内蔵プログラムと人工知能が計算によって導き出した結果でしかない』


 ロイドは現存するヒューマノイド・ロボットには、感情がないと言っていた。
 今のランシュの身体は、本人も認めている通り、彼が設計製造したヒューマノイド・ロボットなのだろう。
 おそらく過去の記憶は、人だった頃のランシュのものだ。その記憶を元に、内蔵プログラムと人工知能が、今のランシュの感情を作り出している。理屈はそういったところだろう。
 結衣は人だった頃のランシュを知らない。
 けれど今のランシュの複雑な表情、感情の動き、結衣を好きだと言った恋心、これが全て作り物だとは、どうしても思えない。
 人だろうとロボットだろうと、ランシュはランシュなのだ。
 今のランシュに感情があるなら、過去の記憶にとらわれることなく、ロイドとの和解の道を見いだす事が、きっと出来るはず。
 結衣はランシュの手を取り、両手で包んだ。
「お願い、ランシュ。勝手に出て行ったりしないで。私と一緒に住むのは、あなたの方が辛いのかもしれないけど、ロイドとちゃんと話し合ってみて。私は局の事には口出しできないから、ランシュが自分で話して。二人で考えれば、あなたが身を隠さなくてもいい方法が見つかるかもしれないし。今のまま出て行かれたら心配なの。私の自分勝手なわがままだとは思うけど」
 自分の手を握る結衣の手を見つめて、ランシュがためらいがちに小さく頷いた。
「……ユイがイヤじゃないなら、出て行かないよ」
 ランシュの言葉を聞いて、自然に笑顔がこぼれる。そんな結衣を見て、ランシュもつられたように少し笑った。
「じゃあ、お茶淹れるから座ってて」
「うん。ありがとう」
 そう言ってランシュは、キッチンを出て行った。
 湧いたばかりの熱い湯で、お茶を淹れカップに注ぐ。残りをポットに入れて盆に乗せると、結衣はキッチンを出た。
 ランシュは食卓について待っていた。
 結衣がランシュの前にカップを置き、テーブルの上にポットを置こうとした時、ロイドが部屋に入ってきた。
 いつもは呼ぶまで、二階から下りて来ないのに珍しい。
 ロイドは部屋に入るなり、結衣に詫びた。
「ユイ、ゆうべは悪かった」
 一瞬何の事か分からず、結衣はキョトンとする。しかしすぐに思い出した。
 昨日はいろんな事がありすぎてすっかり忘れていたが、ロイドが早く帰ると言ったのに帰れなかったのだ。それを謝っているのだろう。結衣は笑って答える。
「もう。仕事なんだから気にしないでって言ったじゃない。今日早く帰ってきたら帳消しにするわ。それでいいでしょう?」
「あぁ。そうしよう」
 ロイドは笑って頷いた。
「すぐごはんにするから、ちょっと待ってて。少し早いけど、ランシュも食べるでしょ?」
「うん」
 ポットをテーブルに置いて、結衣はキッチンへ向かおうとした。その時、結衣の指先がポットの注ぎ口に引っかかった。ポットは倒れ、中に入った熱いお茶が、テーブルの上に流れる。
「ユイ、危ない!」
 ランシュが手を伸ばし、結衣を突き飛ばした。その腕の上に、テーブルから流れ落ちた、熱いお茶がかかる。
「あっつっ……!」
 ランシュは腕を押さえて、背中を丸める。
「ランシュ!」
 結衣とロイドは同時に叫んだ。
 お茶をかぶったランシュの手が、みるみる赤くなる。
 俯いて痛そうに歪められた、ランシュの表情。
 これが本当にロボット?
 結衣が動けないでいると、ロイドがランシュに駆け寄った。
「すぐに水で冷やせ」
 抱きかかえるようにしてランシュを立たせると、ロイドは結衣に早口で尋ねる。
「おまえは?」
 呆然とランシュを見つめていた結衣は、ハッとして我に返った。
「わ、私は大丈夫」
「そうか」
 ロイドはランシュを連れて、小走りにキッチンへ入っていった。
 水道の水が勢いよく流れる音を聞きながら、初めて気付いた事実に、結衣は再び呆然と立ち尽くす。
 ロイドは知らない――?
 先ほどの焦りようからして、ロイドはランシュがロボットだという事を知らないようだ。
 最初ランシュを紹介した時、ロイドはランシュが身を隠さなければならないと言った。その時理由は語らなかったけれど、結衣はランシュと接している内に気付いた。
 ランシュが違法なロボットだから、なのだと思った。
 ロイドが知らないのだとすると、身を隠す理由は別にある。それが何かは分からないけれど、科学技術局から身を隠しているのだろう。
 もしもロイドが知らないまま、ランシュが科学技術局に戻る事になったら、ランシュが違法なロボットである事を、科学技術局に知られてしまうかもしれない。
 そうなれば、違法な機械であるランシュの身体は、処分されてしまう恐れがある。
 ランシュの行く末を二人で話し合ってもらうには、 ランシュがロボットである事をロイドは知っている必要がある。
「ランシュはロボットだ」と直接言えれば楽だが、それはできない。ランシュが結衣に研究内容をしゃべった事がロイドに知られると、二人の確執が益々深まりかねないからだ。
なんとかして、それとなくロイドに知らせなければ。
 何かいい方法はないものかと焦りながら、結衣は意味もなく部屋の中をキョロキョロ眺め回す。
 ふとリビングのテーブルに置かれた、小鳥に目が止まった。昨日の事を思い出し、名案を思い付いた。ロイドなら気付いてくれるはずだ。
 結衣は小鳥に歩み寄り、手に取った。
「ロイド、ごめんね。後でちょっとだけ協力して」
 小鳥に話しかけ再びテーブルに戻した時、キッチンからロイドが呼んだ。
「ユイ、薬と包帯を持ってきてくれ」
 ランシュの腕を取りタオルで押さえながら、ロイドがリビングにやってきた。結衣は言われた通り、戸棚から救急箱を取り出してロイドに渡す。
 ランシュをソファに座らせ、ロイドもその横に座った。ロイドは濡れたシャツの袖をはさみで切り裂いて、薬を塗ったガーゼを赤くなったランシュの腕に乗せる。
「痛むか?」
「少し……」
 包帯を巻きながら、ロイドはいたわるように語りかける。結衣は側に立って、その様子を黙って見つめていた。
 やはりロイドは、ランシュの正体を疑ってもいない。
「おまえ、病院には行けないんだろう? 口の堅い医者を呼んでやるから、後でちゃんと診てもらえ」
「分かりました」
 ロイドが包帯を巻き終わると、ランシュは立ち上がった。
「着替えてきます」
 そう言ってランシュは、リビングを出て行った。
 ロイドはホッと息をつき、結衣の方へ顔を向ける。
「ユイ、ローザンに連絡しておくから、ランシュを診てもらってくれ」
「うん」
 ランシュがいない今の内に、ロイドに伝えなければ。
 結衣はテーブルの上の小鳥を手に取り、ロイドに差し出した。
「ロイド、時間がある時でいいから、この子をみてあげて」
 ロイドは小鳥を受け取り、不思議そうに尋ねる。
「どうかしたのか?」
「うん。昨日ね、私が転びそうになった時、ランシュが支えてくれたんだけど、その時ちょっと腕を強く掴まれて、私思わず痛いって言っちゃったの。そうしたら、この子が勘違いしたのか、ランシュをつついたのよ」
「何?」
 ロイドの目が、驚愕に見開かれた。どうやら気付いたようだ。
「つついた……ランシュを攻撃したのか?」
 もう一押ししておこう。
「うん。人間を攻撃しちゃいけないのよね? だから、どこか調子が悪いのかと思って」
 ロイドは何も言わずに立ち上がると、小鳥を結衣に押しつけるようにして、早足でリビングを出て行った。
 小鳥を目の前まで掲げて、結衣は頭を下げる。
「ごめんね、ロイド。あなたはどこもおかしくないのに」
 電源の入っていない小鳥は、無機質な瞳で、じっと結衣を見つめていた。



 リビングを出たロイドは急いで二階へ上がり、真っ直ぐランシュの部屋へ向かう。
 小鳥の絶対命令が狂う事はない。絶対命令はその名の通り絶対だ。
 センサ類が故障して、相手が人間かどうか判断できない時は攻撃しない。攻撃行動は、相手が人間ではないと断定できる場合にのみ有効なのだ。
 小鳥がランシュを攻撃したという事は、ランシュは人間ではない。
 ロイドはノックも忘れ、部屋の扉をいきなり開いた。
 濡れた服を脱いで上半身裸のランシュが、驚いたように振り向いた。
 ロイドの様子に何かを察したのか、口元に薄い笑みを浮かべ、ゆっくりと身体をこちらに向ける。その華奢な身体を見つめて、ロイドは口を開いた。
「ランシュ、おまえ、ロボットなのか?」
 ランシュは目を細め、黙ったまま腕に巻かれた包帯を、スルスルとほどいていく。包帯がハラリと床に落ち、ガーゼをはぎ取ると、露わになった無傷の白い腕をロイドに見せつけた。
 嘲るような笑みを湛えて、ランシュが言う。
「気付くのに随分かかりましたね。先生」



(第2話 完)




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