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6.



 ユイが起きてしばらく経った頃、寝室の扉がノックされ、ロイドは目を開いた。
 ゆうべは、ほとんど眠れなかった。ランシュがコッソリ出て行く事を期待して、ウトウトしては目を覚ます事を繰り返した。だがそれも徒労に終わったようだ。
 扉の外から、耳慣れた声が聞こえる。
「先生、起きてますか?」
 ロイドは大きくため息をついて、身体を起こす。ベッドを出て答えた。
「起きている。入れ」
 扉が開き、薄暗い室内にランシュが入ってきた。
 それにチラリと視線を送り、ロイドは窓辺に寄って、カーテンを勢いよく開く。
 ロイドの心とは対照的に、雲ひとつない青空と眩しい朝日が、寝不足の目の奥に刺すような痛みを与えた。
 ベッドの縁に腰掛けメガネをかけると、ランシュが目の前まで歩み寄って来た。
 朝日を浴びた穏やかな表情を見据えて、ロイドは憤るままに冷たい声をかける。
「どうして、ここにいる?」
「逃げるのがイヤになりました」
 こちらがどんな思いで、一晩の猶予を与えたのか、分かっているのだろうか。
 あっさりと言い放つランシュに、ロイドの憤りは益々募る。思わず声を荒げた。
「おまえは、自分がどうなるか分かっていて、ここにいるのか?!」
「はい」
「命と引き替えにしてまで、逃げるのがイヤな理由とは何だ?」
 ランシュは口をつぐみ、俯いて視線を逸らす。
 やはりそうか、と納得して、ロイドはひとつ嘆息した。
「ユイか」
「え……」
 顔を上げたランシュの瞳が、困惑に揺れる。ロボットである事を忘れさせる、その複雑な表情に半ば感心しながら、ロイドは言葉を続けた。
「ユイと家族になりたかったと、おまえは言った。ユイに対して特別な想いがあるから、そう思ったんだろう?」
 ユイを見つめるランシュの視線に、ロイドはいつも心を乱されていた。それは復讐の標的を見定める目ではなく、慈しむような優しい眼差しだった。
 ユイを安心して油断させるために、そんな表情を作っているのだと思っていた。だから全く警戒していない、無防備なユイに不安になった。
 けれどゆうべ、話してみて確信した。あれは恋する少年の目だったのだ。
 ランシュは俯いて、気まずそうにつぶやいた。
「あなたにだけは、最後まで知られたくなかったな」
「そんなの見てりゃわかる。おまえは昔より表情が豊かになってるし」
「ユイには、はっきり言うまで気付いてもらえませんでしたけど」
 二年前の自分を思い出して、ロイドはため息を漏らす。
「あいつは激ニブだからな」
 しかし、ハタと気付いて、声を上げた。
「……って、はっきり言ったのか?」
 全く悪びれた様子もなく、ランシュは照れくさそうに笑う。
「安心して下さい。ふられました」
「当たり前だ。あいつはオレの妻だ」
 少し腰を浮かせて額を叩くと、ランシュはおどけたように首をすくめた。
 その無邪気な表情は、かつてロイドを慕い、好奇心に満ちあふれていた、幼い頃のランシュを思い出させる。
 晩年のランシュは、子供の頃のように、ロイドを慕う事はなかった。大人になったのだから、当たり前と言えば当たり前だが、なんでも自分で解決しようとして、頼るどころか意見を聞く事も稀だった。
 今思えば、残り少ない人生への焦りが、他人の意見に耳を傾ける余裕を失わせていたのだろう。
 昔のランシュを垣間見たような気がして、ロイドの頬は思わず緩む。
「おまえと、こんな話をするのは初めてだな」
「そうですね」
「おまえ、女に興味がないのかと思ってたぞ」
「女っていうか、人に興味を持たないようにしていました」
「そうか」
 あの無表情で冷めた態度の裏では、長くは生きられない運命(さだめ)と知り、感情を押し殺して、多くの事を諦めてきたのだろう。
 やっと死の恐怖から解放され、自由と可能性を手に入れたランシュの人生を、ここで終わらせるのは忍びない。
 ロイドはもう一度、ランシュの意思を確認した。
「おまえ、逃げたかったら、今からでも逃げていいぞ」
 ランシュはゆっくりと首を振った。
「いいえ。もう充分です。オレの今の人生は、ロスタイムのようなものだから」
「ロスタイム?」
「ソータに教えてもらったサッカーゲームの話です」
 首を傾げるロイドに、ランシュは笑って説明してくれた。
 そのゲームは、元々人が大勢集まってやる、スポーツだという。試合時間は決まっているが、試合中に反則や選手のケガなどで中断されると、中断された時間だけ試合時間が延長される。
 その延長された時間を、ロスタイムというらしい。
「オレの時間は、本当なら二年前に終わっていました。けれど記憶は五ヶ月間欠落しています。それを埋めるために、神様がくれたロスタイムだったんですよ。二年ももらったから、多すぎるくらいです」
 満足そうに微笑んだ後、ランシュは遠くを見るような目で再び語り始めた。
「ずっと不思議でした。オレがどうして、この身体を作ったのか。この身体で目覚める前の最後の記憶は、あなたに免職を言い渡されて、絶望していた時のものです。あの時のオレは、何もかもやる気をなくして、生きる気力すら失っていました」
 確かにそうだ。免職後のランシュは、数日間食事も摂らず、部屋に閉じこもっていたと聞いた。
 だが元々病弱だったランシュは、すぐに倒れたので、結局閉じこもりも長続きはしなかったらしい。
 快復してからは、普通に生活するようになったと聞いている。
「一度は諦めようとしていた事を、どうして諦められなかったのか、今になって分かりました」
 ランシュはこちらを、真っ直ぐ見つめて言った。
「オレは死ぬのが怖かったんです。もっと生きていたくて、この身体を作ったんです」
 それはロイドが導き出した結論と同じだった。ランシュは結論に至った経緯を語る。
「ゆうべ、あなたに機能停止を告げられて、オレはそれまで無縁になったと思っていた死と、初めて正面から向き合いました。この身体がなくなったら、オレの心はどこへ行ってしまうんだろう。人知れず滅びたオレの肉体と同じように、オレの存在も忘れ去られ、消えてしまうんだろうかと、そんな事を色々考えていると、無性に怖くなったんです。そして気付きました。二年前のオレも、同じように怖かったんだろうと。それまで覚悟していたつもりでいたけど、必死で何かに打ち込んで、目を逸らしていたんです。けれど、いざやる事を取り上げられて、それしか向き合うものがなくなった途端、怖くて堪らなくなったんだと思います。怖さを紛らわせるため、そして命を長らえさせる可能性を手に入れるために、この身体を作ったんです。オレの死に顔が幸せそうに笑っていたのは、夢を実現したからじゃない。もう一度人生の続きを歩む事が出来るからだったんです」
「おまえは、今も怖いんだろう?」
 ロイドが静かに問いかけると、ランシュは俯いた。
「怖いです。けれど逃げたら、ユイにもあなたにも二度と会えないし、この先もずっと逃げ続けなければならない。この世に誰ひとりオレを知っている人がいなくなっても、オレは完全に死ぬ事はできない。それも辛いな、と思いました」
 ロボットはエネルギーが切れれば停止するが、充電すればまた動き出す。完全に機能停止させるのは、そう容易な事ではないのだ。
 ロイドは立ち上がり、ランシュの頭を撫でた。
「冷酷なオレを、恨んでもいいぞ」
 ランシュはロイドを見上げて、クスリと笑った。
「恨んだ事もありましたが、今は恨んでいません。ずっとあなたを尊敬していました。あなたに追いつきたくて、あなたに褒めてもらいたくて、オレは高みを目指したんです。オレの生涯をかけた、最高の研究成果をあなたに捧げます。この身体を受け取って下さい」
 そう言ってランシュは、一枚のメモリカードをロイドに差し出した。
 ロイドは受け取ったカードを眺めながら、ランシュに問いかける。
「何だ?」
「違法なロボットでなければ、機能停止にはならないんでしょう? それには絶対命令と人格形成プログラムが入っています。この身体にインプットすれば、違法ではなくなります」
「おまえが作ったのか?」
 ロイドが尋ねると、ランシュは苦笑しながら答えた。
「記憶にないオレが作りました。メモと一緒に握らされていたんです」
「これをインプットしたらどうなる?」
 それには答えず、ランシュはインプットの手順を説明する。
「メモリ領域全体を書き換えるので、主電源を落としてから、基盤に焼き付けて下さい。起動と同時にオレの記憶は保護領域に移動され、表面には現れなくなります。つまりただのデータになります。それを元に人格形成プログラムが新たな人格を作ります」
 ようするに今のランシュはいなくなり、全く別の人格を持つ新しいヒューマノイド・ロボットが誕生するという事らしい。
「まぁ、オレの記憶を元にするので、多少似たところはあるかと思いますが……。そのプログラムを使うか、単純に機能停止にするかは、あなたの判断に委ねる事にします」
 ランシュの記憶が表に出て来ないのなら、記憶がコピーされている事を他人に知られる事はない。絶対命令も共に焼き付ければ、このロボットは表面上、違法ではなくなる。
 ロイドはメモリカードを握りしめて頷いた。
 心は決まった。
 だが今一度、ランシュの意思を確認したかった。
「分かった。だが判断するのはオレじゃない」
「え?」
 不安と困惑が入り交じった目で見つめるランシュに、ロイドは二つの選択肢を提示する。
「おまえの進むべき道は二つある。おまえ自身が判断して選べ」




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