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2.



 ユイは少し眉をひそめてランシュを見つめた。
 誰の事を言っているのか、ランシュには分かっていなかった。
 一瞬、副局長の顔が脳内でピックアップされる。続いて、知っている限りの女性の顔が、めまぐるしくフラッシュバックした。けれど母と呼べる人は、ユイの他に見つからない。
 ランシュは促すように、首を傾げてユイを見つめる。
 ユイは硬い表情のまま、ランシュに教えてくれた。
「ランシュを産んだ人がお母さんでしょ?」
「オレを産んだのは科学技術局の人工子宮だよ。今の身体はオレ自身だし」
 ランシュの答に、ユイは少し苛々した調子で言う。
「何言ってるの。実際に産んだのは人工子宮でも、作ったのはお母さんでしょ?」
 検索に引っかからないはずだ。あの人の顔をランシュは一度も見た事がない。自分の生い立ちの一部として、話に聞いただけだ。
「あぁ、あの人の事」
 やっと納得してつぶやくと、ユイは非難するようにテーブルの端を軽く叩いた。
「そんな言い方しないの。どんな生まれ方をしたとしても、お母さんがいなければ、ランシュはこの世にいなかったのよ」
 確かにその通りだが、ランシュはあの人と血の繋がりがない。体細胞クローンとして生まれたランシュは、遺伝子の全てをあの人の夫から受け継いだ。
 血の繋がりは、今の家族であるユイやロイド先生ともないが、あの人とは一緒に暮らした事はおろか、顔を見た事も口をきいた事もない。
 禁忌とされる体細胞クローンを作った事で、ランシュが生まれて間もなく、あの人は刑に服した。そして今も服役中で、一生牢から出る事はないという。
 ランシュは彼女を母だと思った事がない。だから会いたいと思った事もない。
 子どもの頃は局から出る事を禁じられていたし、わざわざ会う機会もなかった。彼女もランシュの事など忘れているのではないだろうか。
 バイオ科学者である彼女には分かっていたはずだ。あの頃の技術では、作られた体細胞クローンが長生きできないという事を。
 あれから二十年経った今、ランシュが生きているとは思っていないだろう。
 ランシュの末路を分かっていながら、犯罪に手を染めてまで、彼女がランシュを作った理由は明白だ。
「あの人は、事故で亡くなった夫を蘇らせたかっただけだよ」
 ランシュが吐き捨てるように言うと、ユイは意外そうに目を見開いた。
「そんな風に思ってたの?」
「リスクが大きすぎるのに、人が愚かな行動に出るのは、激しい感情に支配された時だもの」
 彼女は夫の死を受け入れられなかった。だから、なかった事にしたかったのだ。
 ユイは優しい笑みを浮かべ、なぜか慈しむようにランシュを見つめる。
「お母さんがお父さんを愛していた事は、ランシュにも分かっているのね」
「わかるよ。オレも激しい感情に支配されて、法を犯した事があるからね」
 刻々と迫り来る死が怖くて、命を長らえるために、ランシュは今の身体を作った。
 その時の感情は記憶にない。けれどそうでなければ、二つの法を犯してまで、違法なヒューマノイド・ロボットを作った理由に説明がつかない。
 正しい判断を狂わせる激しい感情。
 それがあの人にとって、夫への愛情とその対象を失った失意や絶望である事は、ランシュにも分かる。
 だがユイは、まだ他に何かあるとでも言うように、意味ありげな笑みを浮かべている。
 ユイは感情の変化が、すぐ顔に出る。それを証明するように脳内で分泌される物質も、めまぐるしく変化する。
 先ほどは怒りや不快を表すノルアドレナリン値が上昇した。今はセロトニンが上昇している。怒りを鎮めるためだけではないようだ。
 微かにベータエンドルフィンやドーパミンも上昇している。ランシュの答に、何かを期待しているのだろうか。
「お父さんへの愛から来るお母さんの行動の意味、ランシュには分からない?」
 あの人の違法な行動が、愛する夫を蘇らせる事以外に、何かあるというのだろうか。
 反応を窺うように、ユイがランシュを見つめる。微かに脈拍が上昇。答を期待されているのが分かる。けれどランシュには、正解が分からなかった。あの人のデータが少なすぎる。
 答える事が出来ず黙り込むランシュに、それでもユイは納得したように笑った。
「分からないのは、ランシュが男の子だからかな」
 男には分からない事? ランシュは咄嗟に、隣にいるロイド先生に尋ねた。
「先生は分かりますか?」
「ノーコメント。オレは知っているからな。教えたらユイに怒られる」
 ランシュがユイと話している間に、黙々とケーキを食べ続けていた先生は、ワンホール最後の一切れを口に放り込みながら、涼しい顔でそう言った。
 先生はユイを溺愛している。元々は強引なくせに、仕事が忙しいとかやむを得ない事情を除いては、決してユイの機嫌を損ねる事はしない。追及しても教えてはくれないだろう。
 何食わぬ顔で、ユイとランシュに切り分けられた残りのケーキを引き寄せる先生を横目に見ながら、ランシュは途方に暮れる。
 一人置いてきぼりを食らったランシュの様子に、ユイはプッと吹き出しながら提案した。
「気になるなら、お母さんに直接訊いてみれば?」
「え……いいのかな」
 相手は科学に関する法を犯した犯罪者だ。一度は法に触れて免職になった自分が、会いに行ってもいいのだろうか。おまけにあの人は、ランシュと繋がりのある人だ。
 黙って局長である先生を見つめると、あっさり了承された。
「かまわないだろう。刑務所だし、どうせ二人きりで話す事は出来ないんだ。明日、一応局に訊いてみる」
 許可が下りれば次の休みに、ユイがランシュの母だと言う、あの人に会う事になった。
 ユイは再び優しく微笑んでランシュに言う。
「ランシュ、今まで一度も会った事ないんでしょ? 一度でもいいから、お母さんに会ってあげて」
 会いたくないと思うほど、あの人の事を恨んだり憎んだりはしていない。ただ記憶の片隅に埋もれてしまうほど、興味がないだけだった。
 けれどユイの言った、男には分からない理由がなんなのか知りたかった。




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