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4.



 朝からユイの方が、なぜかソワソワしている。
 今日はあの人に会いに行く。いらないというのに、わざわざ差し入れのお菓子まで焼いてくれた。
 ユイは定休日だが、先生は仕事に出かけてしまった。久しぶりにユイと二人きりの昼間だ。
 結局いくら考えても、あの人の謎は解けなかった。
 家を出る時、ユイに釘を刺された。
「お母さんによろしくね。色々と思うところはあるかもしれないけど、ちゃんと挨拶はするのよ」
「うん」
 苦笑するランシュの背中をポンと叩いて、ユイは笑顔で送り出した。
 相変わらず心配性だ。自分から会いに行っておきながら、口も聞かないほど、そこまで子どもじゃない。
 お腹に子どもがいるからか、ユイはどんどんお母さんっぽくなっていく。ランシュのポジションは以前のような友人や弟から、すっかり息子に変わってしまったようだ。
 そう思うと、ちょっと寂しい気もする。
 けれど、おばあちゃんと暮らしたあの穏やかな日々、そして再び研究が続けられる未来と、同時に戻って来たのだから、これ以上贅沢は言えない。
 いつかユイ以上に、大切に思える女性と巡り会えるのかな――そんな事を考えながら、ランシュはラフルールの商店街を抜け、官庁街の方へ向かった。
 刑務所は官庁街の外れにあった。広大な敷地が高い塀で囲まれ、頑丈な鋼鉄製の扉に閉ざされている。見た目は科学技術局と大差ないが、来る者を拒む独特の雰囲気があった。
 少しの間外から様子を眺め、建物に張り巡らされたセキュリティをチェックする。さすがに一般企業や他の官庁舎に比べて厳しいが、コンピュータ制御の電子機器を欺く事はランシュにとっては容易い。
 センサの感度を上げて気合いを入れると、ランシュは入口横の守衛所に向かった。
 守衛に用向きを伝えると、大きな鉄の扉の横で、人用の小さな扉がスライドした。中に入ってすぐの小部屋で、手荷物と別々にセキュリティチェックを受ける。
 何も問題はなく、すぐに面会室へ案内してもらった。当然だ。こんなくだらない事で、ヘマはしない。
 刑務所は内部も、どことなく科学技術局に似ていた。明るく真っ白な廊下を、案内の刑務官に続いて黙々と歩く。廊下の両脇は壁で、外は見えない。一見殺風景だが、いたる所に監視カメラや赤外線センサが設置され、見えない監視の目を光らせていた。
 突き当たりを左に曲がり、少し行ったところにある扉を開くと、案内人はランシュを中に通した。
 真っ白い壁に囲まれたその部屋は、十歩も歩けば正面の壁に突き当たるほどの狭さだ。左手にはそれぞれの角に一人ずつ刑務官が立っている。ここも監視カメラと赤外線センサが、刑務官と共に睨みをきかせていた。
 右手は上半分が強化ガラスで出来た壁で、その前にカウンタがあり、丸い椅子が数脚置かれている。ガラスの向こうにも同じようにカウンタがあり、その向こうの白い壁には重そうな鉄の扉があった。
 ランシュは促され、カウンタの前に立つ。程なくガラスの向こうの扉が開き、刑務官が入ってきた。その後ろにチラリと見えた頭の先に、ランシュは一瞬ギョッとした。
 想像していた姿と、全く違っていたのだ。
 刑務官が壁際に移動し、後ろから姿を現した初老の女性は、燃えるように鮮やかな赤い髪をしていた。
 伴った刑務官に会釈をしてこちらを向いた彼女は、ランシュの姿を認めて少し目を見張り、そして穏やかに微笑んだ。
 意志の強そうな鳶色の瞳に太い眉。健康的な褐色の肌。色素の薄いランシュとは似ても似つかない。
 自分とはあまりにも違いすぎる彼女の容姿が、この人の遺伝子を一切受け継いでいない事を如実に物語っていた。
 なんと言って声をかけよう。「はじめまして」でもないし、記憶にないのだから「お久しぶり」も変だ。言葉を探してランシュがためらっている隙に、彼女が口を開いた。
「こんにちは。大きくなったわね」
 穏やかな笑みを湛えてランシュを見つめるその顔は、ユイと同じ母の表情だ。
「こんにちは。これ、ユイから。よろしくって」
 ランシュも微笑んで、ガラスの壁に穿たれた小窓から、ユイのお菓子を差し出した。
 彼女が礼を言って受け取り、互いにガラスの壁を挟んで向かい合わせに腰掛ける。
 彼女はランシュの顔をしげしげと眺め、懐かしそうに目を細めた。
「本当に、あの人とよく似てるわ」
 そして「当たり前だったわね」と付け加えて苦笑する。
 ランシュの姿を通して、法を犯してまで夢見た夫との再会を喜んでいるのだろうか。先ほど見せた母の表情は、ランシュの無意識な希望から来る、判断の誤りだったのか。
 彼女の生理的数値の変化から、それを特定する事は出来なかった。
 ただ、ランシュに会えた事を喜んでいるのは確かだ。
 感慨深げな彼女とは裏腹に、相変わらずランシュの中に、そういった感情が湧いてこない。
 感動の再会を期待させるのも、気の毒な気がする。ここは正直に伝えよう。
 静かな笑みを湛え、努めて冷静に淡々と、ランシュは彼女に告げた。
「ユイに言われてきました。オレの上司である科学技術局局長の家族に加えてもらった事を、あなたに報告するために」
 彼女は一層笑みを深くして、静かに頷いた。
「ユイさんて、いいお母さんね。あなたには恨まれているだろうと思っていたから、こうやってわざわざ来てくれただけでも嬉しいわ」
 恨んではいない。だが忘れてしまうほど無関心だったのだから、それより酷いかもしれない。ここに来たのも、会うのが目的ではない。
 ランシュの思惑を知ってか知らずか、彼女は静かに語り始めた。




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