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5.



「ずっとあなたに会いたかったの。どうしてもあなたに会いたくて、私は罪を犯したの」
 それほどまでに夫の死を受け入れられなかったのだろうか。遠くを見るような彼女の目が、自分を透かしてその向こうに夫を見ているような気がしてならない。
 だがそれだけではないと、ユイは言っていた。それを知るためにここに来たのだ。
 ランシュは単刀直入に尋ねた。
「あなたは、どうしてオレを作ったんですか?」
「あなたに会いたかったからよ」
 にっこり微笑んで同じ事を繰り返す彼女に、少し苛つく。
「そんなに夫の死を認めたくなかったんですか?」
「そうね。認めたくなかったわ。でもそれ以上に悔しかったの」
「悔しい?」
 何か糸口のようなものが見えた気がして、ランシュは先を促す。
「ええ。私たち、結婚して十日も経ってなかったのよ」
 彼女の夫は貿易関係の仕事をしていた。世界中を飛び回っている彼と、科学技術局の科学者で変則的な勤務をしている彼女は、なかなか予定が合わず、結婚までも随分時間を費やした。
 彼が飛空挺に乗るのはいつもの事だった。その日もいつもと変わりなく、彼女は笑顔で彼を送り出し、三日後に帰ってくるはずだった彼は、二度と帰ってこなかった。
 彼の乗った飛空挺は事故で海に墜落し、乗員乗客全員が死亡。機体は深海に沈んだため、遺体の上がらなかった者も多い。彼もその一人だった。
 その事故はランシュも知っている。かつて世話になったおばあちゃんの孫が事故の犠牲者だったからだ。ひとりでおばあちゃんのところに遊びに来た帰り、事故に遭ったらしい。
 飛空挺の事故自体珍しく、これまでに数えるほどしか起きていない。そのため彼女の事を調べていて、すぐにだどりついた。
 彼女が悔しいのは、滅多に起きない事故がよりにもよってという事だろうか。おばあちゃんはそう言っていた。
 だが彼の場合は毎日のように乗っているので、よりにもよってというわけでもない。確かに偶然に見舞われた不運としては、誰でも同じなのだろうが、おばあちゃんの孫より彼の方が、事故に遭う確率は元々高かった。
 他にも悔やまれるような事があったのだろうか。前日にケンカでもしていたとか、何か約束があったとか。
 ランシュが考え込んでいると、彼女が見透かしたようにクスリと笑った。
「別にケンカ別れしたわけじゃないの。ただ私たち、二人でいられる事が少なかったから、どうしてもっと二人の時間を大切にしなかったのかと悔しかった」
 なんだそんな事かとランシュがガッカリしかけた時「そしてね」と彼女は続けた。
「子どもを作るのを後回しにした事を後悔したの」
 彼女も彼も、当時大きな仕事を抱えていた。互いに目が回るほど忙しく、他の事にかまけている余裕はなかった。
 合意の上で、子どもを作るのはもう少し先にしようと決めていたのだ。そしてそのまま永遠に先送りとなってしまった。
 彼女は少し自嘲気味に笑う。
「二人ともまだ若いし、いつだって子どもを持つ事は出来るから、焦らなくてもいいって思ってたのに、手に入らないと分かった途端、どうしても欲しくなるのは不思議ね」
 ドクリと鼓動が脈打って、ランシュは自分が作られた理由を悟った。心の高揚を察知して鼓動が早くなる。次の瞬間、視界が赤い幕に覆われた。
 一度に溢れ出した様々な感情や言葉になる前の思考が、瞬時に処理できる情報の許容量を超え、人工知能が警告を発したのだ。
 視界の片隅にランシュにしか見えないメッセージが表示されている。感度を上げたセンサも徒になったようだ。
 ランシュはいくつかの思考回路を停止させ、人工知能を安定させる。今ここで身体ごと緊急停止して、正体をばらすわけにはいかない。
 やがて視界が元の色彩を取り戻した時、目の前で心配そうに見つめる彼女と目が合った。
「どうしたの、ランシュ。泣いてるの?」
「え?」
 言われて頬に手をやると、知らぬ間に涙が流れていた。
 彼女はランシュの顔に向かって手を伸ばす。けれどその手はガラスの壁に阻まれて止まった。手の平をガラスにつけたまま、彼女がすまなそうに言う。
「ごめんね、ランシュ。あなたを辛い目に遭わせる事は分かってた。あの頃の技術じゃ生まれても長くは生きられないって知ってたのに。それでもあの人が生きた証、私とあの人の絆の証、赤ちゃんがどうしても欲しかったの」
 彼女の言葉に、知らずに流れていた涙の意味を知った。嬉しかったのだ。
 ずっと誤解していた。自分の存在は、夫を失い狂気に囚われた女の、愚行が生み出した身代わりだと思っていた。
 愛されているのも、求められたのも、自分自身ではなく彼女の夫なのだと。
 身代わりではなく自分自身が、彼女を犯罪に走らせるほどに、望まれて生まれてきた。その事実が、いつも死の影に追い立てられていた、あの薄暗い十八年間に光を与える。
 そして、これからも――。
 ランシュはガラス越しに、彼女の手に手の平を重ねた。カウンタに置かれたもう片方の手は、彼女を求めるように小窓に伸びていく。その手を彼女がそっと握った。
 伝わる温もりに再び涙が溢れ出し、ランシュは俯く。
「ごめんなさい。オレはユイに言われるまで、ずっとあなたの事を忘れていました。今までほとんど気に留めた事もなかったんです。ごめんなさい」
 こんなにも愛されていたのに、知りもせず、知ろうともせずに。
 彼女はランシュの手をギュッと握る。
「いいのよ、それで。私の事を思い出してもあなたは辛いだけだもの。あなたが幸せでいてくれる事が、私の何よりの願いなんだから。安心したわ。話には聞いていたけど、あなたが元気になってくれて」
 ランシュが面会に来るという情報と共に、遺伝子治療を受けて完全回復したという話も伝わったのだろう。
 それはロイド先生と口裏を合わせた方便だ。ランシュが今後も人として生きていくために。
 今のランシュの身体は、彼女が作ったものではない。彼女が感じているこの手の温もりも作られたものだ。
 どうして生身のうちに彼女に会いに来なかったのか、それだけが今になって悔やまれる。
 未だに涙をこぼし続けるランシュの手を、彼女が軽く揺すった。
「ほら、ランシュ。もう泣かないで。男の子が簡単に泣くものじゃないわ」
「え?」
 彼女の言葉がなんとなく引っかかって、ランシュは顔を上げる。彼女は微笑んで少し首を傾げた。
「覚えてる? ――わけないわね。ぐずりかけたあなたにこう言ったら、不思議と泣き止んだのよ」
 あぁ、そうか。これで全て謎が解けた。
 ランシュは涙を拭いて、クスリと笑った。
「現金だね、オレ」
 記憶の奥底に眠っていた、あの柔らかな温もりは、この人の腕の中だったのだ。
 改めてその記憶を反芻すると、心の中まで温かさに包まれているような気になった。多分彼女と過ごした日々は、あの十八年の中で、一番幸せな三日間だったのだろう。
「時間です」
 後ろから刑務官が、面会時間の終了を告げた。
 ランシュも彼女も、手を退いて席を立つ。
「また会いに来ます」
「えぇ。ありがとう」
 彼女は笑って頷くと、刑務官に連れられて扉の向こうに消えて行った。




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