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9.



 部屋に入った途端、緊張の糸が切れて、ロイドは縋るようにユイを抱きしめた。
「な、何?」
 驚いたように尋ねるユイに、ロイドはため息を吐き出しながらつぶやく。
「肝が冷えたぞ、おまえ」
「あ?」
 不思議そうな声を漏らしたあと、ユイは少し笑って問いかけた。
「王子様を叩いた事?」
「本当なら、タダじゃ済まないところだぞ。殿下の懐の広さに感謝しろ」
 そう言ってロイドは身体を離すと、ユイの額を軽く叩いた。
 ユイは顔を覗き込みながら、からかうように言う。
「そうね。ラフィット殿下だったら極刑だったかも。それでもあなたは、かばってくれた?」
 全く悪びれた様子のないユイに、ロイドは顔をしかめて再び額を叩いた。
「訊くな」
 二人でリビングに向かおうとした時、入口の扉がノックされた。ロイドが応対に出ると、ラクロット氏がそこにいた。ユイが殿下の部屋で使っていた生活用品と着替えと小鳥を届けてくれたらしい。
 ロイドはそれを受け取りユイに渡す。
 二人で改めてリビングに向かい、ロイドは入口で足を止めた。
 先日ユイが来た時から、片付けていない。床に散らばった機械部品や工具を見つめて、ロイドは少し考える。
 ユイはあと二日、ここにいる事になる。自分は慣れているから上手く避けて歩けるが、ユイが踏んで壊したり、足を取られて転んだりしては面倒だ。仕方ないので片付ける事にした。
 風呂の場所を教え、ユイが風呂に入っている間に、ロイドは床に散らばった物を拾い集め、箱にまとめて部屋の隅に置いた。
 床にモップをかけていると、ユイが風呂から上がってきた。
 ユイは部屋を見渡して、感心したようにつぶやく。
「この部屋、こんなに広かったのね」
 手伝おうかと申し出られたが、もう終わってしまった。ロイドはモップを片付けて、ソファに座るように促し、リビングを出た。
 冷えた茶をグラスに注ぎ戻ってくると、ユイがソファに座って待っていた。
 寝間着姿は初めて見たが、ロイドよりはるかに小さい殿下の寝間着でさえ、ユイには大きいらしい。まるで袋に入っているみたいで、なんだかかわいい。
 グラスを差し出し隣に腰掛けた途端、ロイドは思わず大きなため息をもらした。
 ユイが不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
 ロイドは中空をぼんやり見つめたまま、独り言のようにつぶやいた。
「何やってたんだろうな、オレは。ひと月近くも。殿下の事も、遺跡の事も、全部おまえの言った通りだった」
 ユイは少し微笑んで、ロイドの腕に手を添えた。
「でも、マシンの改造は無駄じゃなかったと思うわ。これからも、きっと役立つと思うし。あれは、あなたにしか出来ない事だもの」
 ロイドはユイを見つめて少し笑う。
「あぁ。確かに数少ない収穫のひとつだ」
 ユイの髪をサラリとひと撫でして、ロイドは気が抜けたように嘆息した。
「だが、急にヒマになって困ったな。本当は今夜中に内蔵プログラムの変更だけでも、しておこうと思ってたんだが、それも必要なくなったし。残処理があるにはあるが、明日の午前中には片付くな。おまえは、どうする?」
 問いかけるとユイは、面食らった表情で、問い返してきた。
「え? 何が?」
「元々は三日後の朝の予定だったが、明日の真夜中、正確には明後日だが、ニッポンに帰る事も出来るぞ」
 ユイはニッポンに帰ると決めている。一日でも早く帰りたいと言うなら、引き止める事は出来ない。
 だが、ユイはロイドを見つめて、キッパリ答えた。
「予定通りでいい。最後まで、あなたと一緒にいたい」
「そうか」
 ユイの答えにホッとして、思わず笑みがこぼれた。
 突然ユイが名案を思い付いたように目を輝かせた。
「ねぇ。みんなで遺跡が派手に光るところを見物しない? 夜は明日が最後だし。王子様やローザンやブラーヌさんや、みんなで」
 楽しそうな名案だが、ロイドとしてはあまりおもしろくない。
「みんなで?」
 つい不満げな声を漏らすと、ロイドはユイを両手で抱き寄せた。
「二人でいいだろう? 殿下はともかく、ローザンは仕事でもないのに真夜中に呼び出したら気の毒だ」
 残り二日間、出来るだけユイと二人きりで過ごしたい。それが本音だった。
 それを見透かしたように、ユイはイタズラっぽい目を向ける。
「それ、今思い付いた口実でしょう?」
 図星には違いないが、認めたくはない。
「おまえ最近、余計な一言が多いな。口実じゃなくて正論だ」
 ロイドが反論すると、ユイはおもしろそうにブラーヌの世話はどうするとか、反論返しを続ける。
 いい加減苛々して、ロイドはユイを抱きしめ、本音をぶちまけた。
「ニブイ奴だな。あと二日しかないんだ。せっかくヒマになったのに、余計な事で時間を無駄にしたくない」
「うん……」
 ユイは反論をやめ、ロイドの胸に顔を伏せて、強く抱きしめ返した。
 少ししてユイがポツリとつぶやいた。
「もう、一緒に逃げなくていいのよね」
「あぁ」
「じゃあ、もう一言、余計な事言ってもいい?」
「何だ?」
 ユイは顔を上げ、ロイドを見つめて微笑んだ。
「あなたが好き」
 鼓動がドクリと跳ねた。
 早速無自覚攻撃がきたかと思いつつ、努めて平静を装い、ロイドも微笑み返すと、静かに言う。
「おまえ、今度そういう事言う時は覚悟しろと言っただろう」
 ユイはひるむことなく、宣言した。
「覚悟なら、できてる」
 ロイドは表情を変えることなく、問いかけた。
「いいのか?」
「うん」
 とても、そうは見えなかった。ロイドは一層目を細め、軽く額を叩いた。
「無理するな。さっき足がすくんでただろう。急がなくていい。おまえの迷いが完全に消えるまで待ってやる」
 ロイドがサラリとかわそうとすると、ユイは食い下がってきた。
「だから、もう迷ってないってば!」
 このままユイを抱いていると、本当に歯止めがきかなくなる。ロイドは腕をほどいて立ち上がった。
「煽るな。もう充分限界なんだ」
「だったら、どうして? あなたの方が迷ってるんじゃないの? 私が帰らないって言ったら困るから」
「そうじゃない。オレはおまえを抱く事に関して、迷いは一切ない。だから、やばいんだ」
「え?」
 ユイは訝しげにロイドを見上げた。ロイドはユイを見下ろして、大真面目に答える。
「言っただろう。オレは歯止めのきかない男だ。おまえが途中で怖くなって嫌がっても、止められそうにない。だから、確固たる決意を持って臨んでもらいたい」
「……え……」
 ユイが絶句している隙に、ロイドはクルリと背を向けた。
「少し待ってろ」
 そう言い残して、ロイドはリビングを出て行った。
 これ以上煽られてはたまらない。さっさと寝てもらう事にする。
 ロイドはグラスに、ユイが気に入った果実酒を注いで、リビングに戻った。
「こいつを飲め」
 グラスを差し出すと、ユイは中をチラリと覗き、不機嫌そうに言う。
「私に酒は飲ませないんじゃなかったの?」
「おまえ、酒を飲んだら眠くなるんだろう? こいつを飲んで、さっさと寝ろ」
 ユイは眉間にしわを寄せ、プイッと顔を背けた。
「いらない」
 相変わらずいう事を聞かないユイに少し苛つく。説得など時間の無駄だ。なにしろその間、自分の理性が持たない。
 ロイドは小さく舌打ちして、果実酒を一気に口に含む。空のグラスをテーブルに置き、素早くメガネを外してその横に置いた。
 そして、不安げな表情で見つめるユイの横に片ひざを付くと、両手で頬を包み、強引に顔を上向かせて口づけた。
 舌先で無理矢理こじ開けた唇の隙間から、果実酒を注ぎ込むと、ユイが腕を叩いたり引っ張ったりして抵抗した。
 非力なユイの抵抗など物ともせずに、ロイドは口の中の果実酒を全てユイの口に移した。
 やがて、ユイが果実酒を飲み干すと、ロイドは唇を解放した。
 ひと息に強い酒を飲まされたユイは、口も半開きのまま、酔っぱらったうつろな目で、ぼんやりロイドを見つめる。
(しまった! この顔、やばかった)
 自ら墓穴を掘った事に気付き、ロイドは慌てて顔を背けると、面倒くさそうに言う。
「ったく、手間を取らせるな」
 ユイはぐったりしたまま、力なく反論した。
「ひどい……無理矢理飲ませるなんて……」
「おまえが素直に自分で飲まないからだ」
 初めてユイにマイクロマシンを飲ませたときのことを思い出して、ロイドはクスリと笑った。
「あぁ、そういえば、口移しの方がいいって言ってたっけな」
「言ってないわよ」
 ロイドを叩こうとしてフラついたユイは、慌ててソファの背もたれに背を預けた。
 背もたれの上に頭をのせて、少し上向いたまま、ユイは恨み言を言う。
「もぉ〜バカぁ〜目が回るぅ〜」
 ふと、ユイの口元から首筋にかけて、赤い筋が付いているのに気付いた。メガネなしのロイドは身を屈め、顔を近付けて確認する。
 赤い筋は先ほど飲ませた果実酒が、口からこぼれた跡だとわかった。
 そして、うっかり間近で、酔ったユイの卑怯な顔を見てしまった。
 ちょっとだけ、味見をしてみたくなる。
「なんだ、こぼしたのか。しょうがないな」
 そう言ってロイドは、ソファの背もたれに両手をついて、その間にユイを閉じ込めた。焦点の合わないうつろな目でユイが見上げる。
 ロイドは顔を近付け、唇と舌先でユイの首筋に残る、赤い跡を辿った。
 突然ユイが飛び上がって、声を上げた。
「ひゃあぅ!」
 あまりにも素っ頓狂な声に、一気に気が削がれ、ロイドは顔を上げてユイを睨んだ。
「なんだ、その色気のない声は」
「だって。首、ダメなのよ。美容院でこの辺を触られるのがイヤだから、髪を伸ばしてるようなもんだし。あなたのアレも本当は苦手なの」
「アレ?」
「癖なの? ほら、よく耳元でコソコソしゃべるじゃない。背中がゾクゾクするのよ」
「ふーん」
 それはいい事を聞いた。
 ロイドは小刻みに頷きながら、ゆっくりとユイの横に腰を下ろした。そして意地悪な笑みを浮かべ、指先でユイの首筋をツッと撫でた。
「この辺か?」
「やめてったら!」
 ユイは両手で首をガードし、上半身をロイドの射程距離から遠ざける。過剰な反応がおもしろくて、ロイドは無防備になった脇腹をつまんだ。
「こっちはどうだ?」
「きゃあ!」
 ユイは悲鳴を上げて、身をよじる。背中も腕も太股も、どこを指先でつついても、ユイはきゃあきゃあ言いながら転げ回った。
 やがて暴れて酔いが回ったのか、動きが鈍くなってきたので、ロイドはつつくのを止めた。
 ソファに横たわり荒い息を吐きながら、ユイはロイドに懇願する。
「はぁ……意地悪……もう、許して……動けない……」
 他人が聞いたら誤解されそうなユイのセリフがおかしくて、ロイドはクスクス笑った。
「そそられるセリフだな。だが、ポイントは押さえたから、今日のところは勘弁してやろう」
 ロイドはぐったりとしたユイを抱き上げ、寝室に運ぶとベッドに横たえた。そして挨拶と共に額にキスをして寝室を出た。
 そのまま風呂に向かい、戻って来てソファに座り、ぼんやり考えた。
 本当はユイが指摘した通り、迷っている。
 ユイがニッポンに帰らないと言ったら困るというより、自分が帰したくなくなるような気がして。
 殿下が見つかったから、ユイはもう身代わりをしなくていい。ユイがユイとしていられるなら、何も帰さなくてもいいのではないか。安易にそんな事を考えてしまう。
 帰してしまったら、三十年後か、いつの事になるか分からない時空移動装置の完成を待たなければ、ユイに会えなくなってしまう。
 もう一度ユイに会うために、時空移動装置はなんとしても完成したい。だが、何年もかかったとしたら、その時ユイは自分に会いたいと思っているだろうか。
 かといって、何年かかるか分からないのに、当てのない自分を待って人生を犠牲にしろとは言えない。
 ユイはニッポンに帰ると決めている。だったらロイドのわがままで、引き止める事は出来ない。
 このまま時空移動装置の事も、ロイド自身の想いも告げないまま、わずか一月足らずの、けれど一生分にも匹敵する、楽しく幸せな夢が見られたと思えばいい。
 残り二日、できるだけユイと一緒に、笑って楽しく過ごそう。
 そして最後の夜に、最高の思い出を頂く事にしよう。
 ロイドは立ち上がり、灯りを消して寝室に向かった。




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