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11.



 午後になり、ユイはお菓子を作るために厨房へ出かけた。
 ロイドはたまっている仕事を片付けようと、科学技術局のホストコンピュータに接続し、報告書や計画書の電子データを閲覧していた。
 しばらく黙々と仕事をこなしていると、机の上の電話が内線の着信を知らせる呼び出し音を鳴り響かせた。液晶画面に表示された発信元は、貴賓室だ。
 ロイドが応答ボタンを押して返事をすると、画面にはレフォール殿下が映し出された。
「ロイド、今からそっちに行ってもいい?」
「かまいませんよ」
「じゃあ、ジレットと一緒に行くから」
 電話を切った後ロイドは、ホストコンピュータとの回線を切断し、ジレット嬢のために部屋のセキュリティを解除した。
 廊下に出ると、ちょうどお二人が、ラクロット氏と共にこちらに向かってくるところだった。
 ラクロット氏は殿下を送り届けると、その場を辞した。
 研究室に入ったレフォール殿下は、部屋を見回して問いかけた。
「あれ? ユイは?」
「厨房に行ってます」
 ロイドが答えると、殿下は頭を抱えた。
「わぁ、じゃあ、今誰かが来て、そこへユイが帰ってきたらまずいよね。貼り紙しとかなきゃ。ロイド、書くものくれる?」
「連絡なさったのでは?」
 ロイドは紙とペンを差し出しながら尋ねる。殿下はそれを受け取り、ポケットから通信機を取り出した。
「通じなかったんだよ、これ」
「貴賓室からですか?」
「ううん。地下の遺跡から。ジレットと見学に行ってたんだ」
 ロイドは軽く頭を下げる。
「申し訳ありません。私がお伝えするのを失念しておりました。それは地下では通じないんです」
「なんだ、そうだったんだ。はい。できたよ」
 殿下は笑いながら休憩コーナーの机の上で貼り紙を書くと、ロイドに差し出した。
「危険! 立入禁止」と描かれた紙を持って、ロイドは廊下に出ると、入口横の壁に貼り部屋に戻った。
 殿下とジレット嬢に広域人物捜索装置をお見せして、説明をしていると、ユイが厨房から帰ってきた。
 ユイは殿下の姿を見るなり、不機嫌そうな顔でつかつかと歩み寄る。
「ちょっと、レフォール! 移動する時は連絡する約束でしょ?」
「おまえ! 何、呼び捨てにしてるんだ!」
 いきなり悪態をつくユイの腕を引いてロイドがたしなめると、ユイは平然と釈明する。
「名前でいいって本人に言われたのよ。自分自身に殿下って呼ばれてるようで気持ち悪いって」
「たとえ、そうでも……!」
 ロイドが反論しようとすると、殿下が笑いながらそれを制した。ロイドは仕方なく引き下がる。
 自分のいう事はちっとも聞かないくせに、殿下のいう事はあっさり聞き入れるとは、どういう了見だ、とロイドは思った。
 殿下と少し話をすると、ユイは再び厨房へ向かう。
 そこへお菓子につられてローザンがやって来た。ユイは殿下になりすましてローザンをからかった後、改めて厨房へ向かった。
 ロイドはその間に、ローザンと共に机と椅子を用意する。全員席について雑談をしていると、お菓子をのせたワゴンを押してユイが戻って来た。
 ユイはいつものように茶を淹れ、皆にお菓子を配る。
 いつもは仕事の合間にホッとひと息つくだけの慌ただしかった時間が、今日はゆったりと流れていく。
 目の前に置かれたお菓子を、ゆっくりと味わいながら、ふと思った。
 ユイの作ったお菓子を食べられるのは、これが最後かもしれない。
 そう思った途端、胸の奥が何だか分からない感情でざわついた。
 しばらくの間、お菓子を食べながら談笑すると、ロイドとユイを残して、皆は研究室を後にした。



 真夜中のテラスでロイドは、ユイと並んで手すりに縋り、ラフルールの夜景を眺めた。
 見下ろす街の中央広場には大勢の人が集まり、この先三十年は見る事の出来ない不思議な夜の光景を見ようと待ち構えていた。
 腕時計を確認すると、ちょうど深夜二時。
「始まるぞ」
 ロイドが静かに告げた直後、遺跡が派手に光の柱を立ち上らせた。ラフルールの街から歓声と拍手が沸き起こる。
 光の柱を見つめて、ロイドは目を細める。
 この光がユイを自分の元に連れてきてくれた。そして一日後の朝、無情にも連れ去ってしまう。
 そう考えると、再び胸の奥がざわついた。
 やがて光が収束し、ロイドはユイと顔を見合わせ、笑みを交わした。
「次に見られるのは、三十年後だな」
 ユイは淡く微笑みながら、ロイドを真っ直ぐ見つめる。
「その時も、あなたと一緒に見られたらいいな」
「あぁ」
 ロイドはユイの肩を、そっと抱き寄せた。
 ユイの言葉に、胸のざわめきが大きくなる。
 部屋に戻ったロイドは、居ても立ってもいられなくなり、書斎に入ってコンピュータを立ち上げた。
 ユイが入口に立って、不思議そうに尋ねる。
「まだ寝ないの?」
「あぁ。おまえは先に寝ろ」
「……うん」
 ユイは扉を閉めて立ち去った。
 画面には時空移動装置の図面と設計書が表示されている。理論も仕組みも穴だらけだ。ロイドはその穴を少しでも埋めようと、ブラーヌと共に行った調査書類を検証した。
 程なく壁にぶち当たる。
 地下遺跡は殿下捜索のために、必要最低限の調査しか行っていない。全然データが足りないのだ。
 ロイドは頭を抱えて項垂れた。
 少しでも早く装置を完成させたい。何をそんなに焦っているのだろうと思う。
 そして、胸のざわめきの正体を悟った。
 ユイのいない世界に耐えられないのだ。それを想像しただけで、心が平静でいられなくなる。
 あまりのふがいなさに、ロイドは低く笑った。
 時計を見ると五時を回っていた。データが揃うまで、これ以上何も出来ない。
 ロイドはコンピュータの電源を落とし、部屋を出た。
 寝室の扉を開け、眠るユイの姿を目にするとホッとした。
 ユイはまだ、ここにいる。それだけで心が落ち着いてきた。
 上衣を脱いでユイの隣に潜り込み、そっと抱きしめる。
 腕の中の温もりに安心したのか、ロイドはすぐに深い眠りに落ちた。



「ロイド、誰か来たわよ。起きて」
 横から身体を揺すられ、ロイドは目を覚ました。無理矢理起こされ少しムッとして、身体を揺するユイの手を叩く。
「ラクロットさんだろ。おまえが出ろ」
「んもぉ!」
 ユイはベッドから飛び降り、寝室を駆けだして行った。
 再び眠りに落ちそうになる意識を無理矢理引き上げて、ロイドは身体を起こした。ベッドの縁に座りぼんやりしていると、寝室の扉が勢いよく開いてユイが怒鳴った。
「朝食が来たわよ!」
「怒鳴らなくても、聞こえる」
 ロイドが気怠げに答えると、ユイが尋ねた。
「あなた、今日休みなの?」
「あぁ。一ヶ月休んでないから、陛下から休めって言われた」
「それで、ゆうべ夜更かししてたのね」
 ユイが納得したようにため息をつく。
「もう少し寝てる?」
 ロイドは枕元のメガネを取って、立ち上がった。
「いや、起きる」
 ユイと一緒にいられるのは、明日の朝までだ。残りわずかな時間を、寝て過ごすのはもったいない。
 目をこすりながら、のろのろと入口に向かうロイドに、ユイは呆れたように言う。
「だって眠そうだし」
「血糖値が下がってるからだ。食えば目も覚める。――というわけで、少し補給させろ」
 ユイの元にたどり着き、抱きしめてキスした途端、突き飛ばされた。
「だったら、ごはんを食べなさいよ!」
 ロイドはメガネをかけながら、首を傾げる。
「なんか昨日から、やけに嫌がるな」
 ユイはクルリと背を向けて、リビングに向かった。
「脈絡がなくて、唐突だからよ」
 筋を通したつもりなのに、脈絡がないと判断されるのは心外だ。
 リビングに行くと二人分の食事が用意されていた。ラクロット氏がロイドの分まで運んでくれたらしい。
 ユイと一緒に朝食を摂りながら、今日の予定について話した。何がしたいか尋ねると、ユイは少し笑って答えた。
「特に何も。あなたと一緒にいられるならば、それでいい。何もしないで、ぼんやり座ってるだけでも」
「それもいいかもな」
 そう言ってロイドは微笑んだ。
 ユイと共に過ごす最後の一日が始まる。
 特に何をするわけでもなく、ロイドの部屋で二人きりの時間を過ごした。
 ソファに座って話をしながら、ふと思い付いた事をする。もう一度地下遺跡を見に行ったり、ユイの教えてくれたゲームをしたり、時々キスを交わしたりした。
 ゆったりと流れるなんでもない二人きりの時間が、至福の時のように感じられた。
 やがて夕日が沈む頃、ユイが寂しそうな表情を見せた。
 その様子にロイドは、昨日からの胸のざわめきが、一段と大きくなっていくのを感じた。



 刻一刻と終わりの時が近付くにつれ、胸のざわめきが増してくる。このままユイと朝まで一緒にいて、平静を保てる自信がない。
 ロイドは夕食と風呂を終えた後、酒ビンとグラスを持ってリビングに向かった。ソファに座りユイに宣言する。
「今夜は飲むぞ。慰労会だ」
「え? 何の?」
「おまえが見事に殿下の代役を務めきった事のだ」
 ユイは一瞬、不思議そうに目をしばたたいた後、笑ってグラスを取った。
「うん。ありがとう」
「お疲れ」
 グラスの縁を合わせて乾杯すると、ユイは舐めるようにして、ほんの少し酒を飲んだ。甘い酒ではないので、一気に飲んだりしないようだ。今夜酔っぱらって、さっさと眠り込まれては切ない。
 けれどロイド自身は、酔ってしまいたかった。胸のざわめきを紛らわせたくて。
 ロイドは一杯目を早々に飲み干し、二杯目をグラスに注いだ。ちっとも酔いが回ってこない。
 酔いの回りを早くしようと、ロイドはタバコを吸う事にした。
 テラスから灰皿を持ち込み部屋の隅でタバコに火を付けていると、ユイがこちらをじっと見つめている事に気付いた。
 煙が嫌いなのかと思い尋ねたら、この香りは好きだからかまわないと言われた。ロイドは灰皿とタバコを持ってユイの隣に戻った。
 大きく煙を吸い込んでみたが、全く酔いは回らない。
(もう少し飲まないとダメかな)
 そんな事を思っていると、ユイが肩に頭を付けてもたれかかってきた。見ると目を閉じて、幸せそうに微笑んでいる。
「なんだ、もう眠くなったのか?」
 不服そうに問いかけると、ユイは目を閉じて微笑んだまま答える。
「違う。あなたに、くっついていたいの」
 今夜は煽られてもかまわない。元々最初からそのつもりだ。ユイも覚悟は出来ているだろう。なにしろ、一緒にいられる最後の夜なのだから。
「欲情したのか?」
 からかうように再び問うと、ユイは平然と返した。
「そうかもね」
「……切り返しが、うまくなったな。なんか調子が狂う」
 ロイドが不満げにつぶやくと、ユイはクスリと笑った。
 本当に眠くなってはいないようだ。体勢は変わらないものの、話しかければユイはちゃんと受け答えをする。ユイも時々酒を舐めながら、しばらく会話を続けた。
 五杯目を飲み干した辺りから、ロイドは次第に焦り始めた。いつもなら、これだけ飲めば、すでにいくらか酔いが回っているはずだった。
 ゆうべはほとんど眠っていない。体調も万全とはいえないのに、どういうわけか目も頭も益々冴えてくる。
 酔えない焦りと共に、胸のざわめきが押さえきれないほど膨れあがってきた。
 酒ビンを傾けて、空になっている事に気付いた。
 ロイドはタバコをもみ消し「もう一本持ってくる」と言い、席を立つ。
 リビングの出口に向かっていると、ユイが後ろから声をかけた。
「あんまり飲み過ぎない方がいいんじゃない?」
 ロイドはピタリと歩を止めた。ユイの優しいいたわりの言葉に、胸のざわめきがピークに達する。
 これ以上、心の平静を保てそうにない。
 ロイドが立ち尽くしていると、ユイが心配そうに歩み寄って来た。
「やっぱり酔ってたのね。大丈夫? 気持ち悪いの?」
 とうとう押さえ込んでいた心のタガか外れ、ロイドは俯いたままポツリとつぶやいた。
「酔ってない。素面(しらふ)でなんかいられるか。なのにちっとも酔えない」
 (せき)を切って溢れ出した感情は、唇から言葉となってほとばしる。
「おまえが泣くのはイヤなんだ。だから、おまえを不安にさせないように、毅然としていようと思えば思うほど、心は平静でいられない。たとえ一分一秒でさえも、おまえがオレの手の届かない所へ行ってしまうなど、考えただけでも耐えられない。自分がこんなにも聞き分けのない子供だとは思わなかった」
 ロイドは振り返ると、思い切りユイを抱きしめた。
 制御不能に陥った感情は、これまで告げる事をためらい続け、それでも一番伝えたかった言葉をも吐き出した。
「本当はおまえをニッポンに帰したくなんかない。ずっと側にいて欲しい。どうしようもなく、おまえが好きだ。愛してる」
 少しの間の後、ユイが耳元でつぶやいた。
「こめん、泣いちゃった。あんまり嬉しくて。でも、それって最初に言う言葉じゃない? あなた、いきなりキスなんだもの」
「そんな事誰が決めた。おまえの唇には、ついつい誘われるんだ」
「魔性の唇だものね。言わなくても分かったけど、どうして今まで言わなかったの?」
「おまえを悩ませたくなかった。だが、結婚しようと言っても揺るがなかったし、おまえの決意が固い事は分かった」
「だって、せっかくあなたが私のためにマシンを改造してくれたし、帰った方がいい事も分かってるもの」
「そうか」
 真っ先にユイを帰すための改造なんかするんじゃなかったと、少し後悔する。ロイドは更にきつくユイを抱きしめた。
「オレがもっと出来の悪い科学者ならよかったんだ。おまえをニッポンに帰す方法も、マシンの改造方法も分からなければ、おまえを帰さずに済んだのに」
 ユイはなだめるように、ロイドの背中をポンポン叩く。
「弱気なあなたなんて、らしくないわ」
「今だけだ。明日には忘れろ」
 明日になれば、ユイはニッポンに帰ってしまう。今さらそれを覆す事が出来ない事も分かっている。抑えていた感情を吐き出して、ロイドは少し冷静さを取り戻してきた。
 ユイがロイドを強く抱きしめ返した。
「忘れない。忘れたくない。消えない思い出を私に刻んで。決してあなたを忘れないように」
 ユイは顔を上げると、微笑んでロイドを見つめた。
 ユイが忘れてしまってもかまわない。けれど、自分は覚えておこう。
 ユイの笑顔、ユイの声、ユイの温もり。ユイの作ってくれた甘いお菓子と、それ以上に甘い、ユイの唇。
 これから頂く最高の思い出と共に、ユイの全てを胸に刻みつけて、この先もずっと、一生覚えておこう。
 少しの間見つめ合った後、ロイドは無言のままユイを抱き上げ、寝室に向かった。




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