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12.



 寝室に入ったロイドは、ユイをベッドの上に横たえた。扉を閉めて振り返ると、ユイは横向きに転がって、ロイドの姿を目で追っている。
 ユイの元に戻りメガネを外して枕元に置くと、ロイドはベッドの縁に腰掛けた。
 ユイは黙ってロイドを見上げる。
 ロイドは少し微笑んで、ユイの頬に手を添えた。その手が頬を滑り首筋を辿ると、ユイはピクリと震えて身を硬くする。
 首筋を通過した手は肩を掴み、ユイの身体をゆっくりとベッドに押しつけた。
 じっと見上げるユイを見つめながら、ロイドはゆっくりと身体を倒し、覆い被さるようにして静かに口づけた。一度唇を離すと、今度は激しく深く口づける。
 このまま朝までユイに溺れて、全身でユイの存在を感じていれば、あの胸のざわめきも忘れてしまえるだろう。
 ユイの両肩を掴み夢中でその唇に溺れていると、胸の奥で自分自身が問いかけた。

 本当にこれで終わりにしてしまっていいのか?

 ロイドはハッとして動きを止める。ベッドに両手をついて身体を離した。見下ろすとユイは息も絶え絶えで、少しはだけた胸元が小刻みに上下していた。
 この温もりも甘い唇も、失いたくはない。
 想像しただけでも耐えられないのに、実際にユイのいない世界に耐えられるわけがない。
 思い出なんかいらない! 欲しいのはユイと共にある未来だ!
 それを手に入れる手段はある。終わりにする必要はないのだ。
 ユイが目を開き、うるんだ瞳でロイドを見上げた。ロイドは微笑んでユイを見つめ返す。
「やっぱり今はもったいない。続きは今度だ。今日はもう寝ろ」
 そう言ってロイドは、メガネをかけてベッドを離れた。
 ユイを残して寝室を出たロイドは、新しい酒を持ってきてソファに腰掛けた。
 時空移動装置を一日でも早く完成させて、ユイを迎えに行こう。何年も時間をかけるつもりはない。明日ユイを送り出した後、早速ブラーヌを呼んで調査を続行しよう。
 そんな事を考えながら酒を注ごうとした時、寝室の扉が勢いよく開いてユイが叫んだ。
「眠れるわけないじゃない! どうして?!」
 ロイドは弾かれたように顔を上げた。怒っていたユイの顔がみるみる泣き顔に変わり、瞳から涙が溢れ頬を伝う。
「ロイドがいい……あなたでなきゃイヤなの……」
 ロイドは酒ビンを置いて微笑むと、ユイに向かって手を差し伸べた。
「来い」
 ユイは駆け寄り、ロイドにしがみつく。ユイの髪を撫でながら、ロイドは優しく諭す。
「泣くな。オレもおまえがいい。もう、おまえでなきゃイヤだ。だが、それは今度だ」
 ユイは涙声で尋ねる。
「今度っていつ? 私、明日ニッポンに帰るのよ」
「いつとは明言できない」
 ロイドが正直にキッパリ答えると、ユイは駄々を捏ねるように益々しがみついた。
「……イヤ……!」
 ロイドは少し間を置いて、小さくため息をついた。
「……ったく。突然会いに行って、驚かせてやろうと思ってたのに」
「え?」
 ユイは泣き止み、驚いたようにロイドを見上げる。ロイドは目を逸らし、自嘲気味に笑った。
「いや、詭弁だな。本当はさっきまで、行くべきか迷ってた」
 今さら隠してもしょうがない。ユイを安心させるためにも、自分の決意を固めるためにも、全部話した方がいいだろう。ロイドはこれまで迷っていた事、そしてこれからやろうとしている事をユイに打ち明けた。
「もう、ごまかしはきかない。必ず時空移動装置を完成させる。だから待ってろ」
 ロイドが宣言すると、ユイは不思議そうに尋ねた。
「うん。だけど、どうして今度なの?」
 そこまで言わせるのかと呆れつつ、ロイドはイタズラっぽく笑う。
「馬は目の前に人参をぶら下げられると、よく走るんだ。食っちまったら満足して走らなくなる。言っただろう? 一分一秒でも、おまえを手放すのは耐えられない。オレは気の長い方じゃないんだ。そんなには待たせない。必ず近いうちに、おまえを迎えに行く」
 決意を強固なものにして、ロイドはユイを抱きしめた。
 ユイはまた涙ぐむ。けれど嬉しそうに微笑んで、ロイドの胸に頬を寄せた。
「うん。待ってる。あなたが出来の悪い科学者じゃなくてよかった。ねぇ、もう一度聞かせて」
 ユイが何をねだっているのか、すぐにわかった。ロイドはユイの耳元に顔を寄せ囁いた。
「愛してる」
 そして、こめかみにキスをする。ユイは一層微笑んで、ロイドにしがみついた。
「その言葉、ずっと聞きたかった」
 それはロイドの方こそ、ずっと言いたかった言葉だった。



 傍らで眠るユイの幸せそうな寝顔を見つめ、ロイドは目を細めた。起こさないようにそっと抱きしめ、耳元で囁く。
「愛してるぞ」
 ユイはくすぐったそうに首をすくめ、口元に笑みを浮かべた。
「うん……私も……」
 起こしてしまったかと少し驚いていると、その後は何の反応もなく、静かな寝息だけが聞こえる。
 どうやら寝言だと分かり、ロイドはホッと息をついた。
 ユイに全てを打ち明けた後、しばらくの間また一緒に酒を飲んだ。
 先に寝るように言ったが、しばらく会えなくなるからロイドが寝るまで、一緒に起きていると言う。
 そんな事を言っておきながら、少しして酔いの回ったユイは、案の定ロイドにもたれて眠り込んだ。
 ロイドはユイを寝室に運び、ベッドに寝かせた。リビングの後片付けをして、ユイの隣に潜り込んだものの、少しうとうとしただけで目が覚めた。
 眠ろうとしたが眠くならないので、諦めて起きている事にする。
 幸せそうなユイの寝顔を眺めていると、愛しさがこみ上げてきて、ついつい抱きしめてしまったのだ。
 ユイが眠っているのをいい事に、ロイドは再び耳元で囁いた。
「待ってると言ったからには覚悟しろよ。おまえがオレを忘れて待つのを止めても、オレは迎えに行くぞ。そして必ず連れて帰る。おまえを他の誰にも渡すつもりはないからな」
 頬に軽く口づけると、ユイはまた寝ながら「うん」と返事をして笑顔を見せた。
 ロイドは少し笑って、力を入れすぎないように気を配りながら、ユイをキュッと抱きしめる。
 しばらくそのまま、時々耳元で「愛してる」と囁きながら、腕の中の温もりに酔っていると、空が白み始めた。
 時計を見ると、五時を少し回っている。陛下は五時には執務室にいるとおっしゃった。相変わらず毎日お忙しいようだ。
 おそらくロイドが出した結論を、お待ちになっているだろう。
 ロイドは間近でユイの寝顔をもう一度見つめる。いよいよ、しばしの別れの朝がやってきた。
 名残惜しい気持ちを抑えて、ユイの頬にキスを落とすと、ロイドはベッドを下りた。
 身支度を調えて白衣を羽織り、ロイドは陛下の執務室に向かう。部屋の中では机に両肘をついて手を組み合わせた陛下が、ロイドを待ち構えていた。
「先日の結論をお伝えしに参りました」
 ロイドがそう言って軽く頭を下げると、陛下は少し目を細めて口元に笑みを浮かべた。
「うむ。顔を見れば分かるが、とりあえず聞こう」
 ロイドは一呼吸置いて口を開く。
「私はユイを手放す気はありません。今日ニッポンに帰しても、近いうちに迎えに行きます」
「そうか」
 陛下はより一層目を細めて、大きく息を吐き出した。
「やれやれ。これで私も肩の荷がひとつ下ろせた」
 心底ホッとした様子の陛下に、ロイドは以前から気になっていた事を問いかけた。
「前々からお伺いしたかったのですが、陛下はどうして私に結婚を勧めるのですか?」
「私もおまえがいつまでも独り身なのは気になっていたが、私以上に気にかけている方がいるんだ」
「どなたですか?」
「ラヴィル伯爵夫人だよ」
「へ?」
 ロイドは思わず間抜けな声を漏らす。
 ラヴィル伯爵夫人は貴族たちの中では、珍しくロイドに好意的な方だ。以前から王宮内で何度かお会いして、ロイドのマシンに興味を持ったらしく、ロイド自身にも親しく接してくださる。
 だが、なぜ結婚の心配までしているのかわからない。
 陛下はため息混じりに言葉を続ける。
「あの方は貴族たちの間じゃ有名な仲人おばさんなんだよ。おまえも知ってるだろうが、あの方はおまえに対して悪意はないし、単なる世話好きなんだか、おまえを王宮内から追い出したい者たちに焚き付けられたみたいでな。妙な使命感にとらわれて”ご友人の陛下から是非お勧めください”ときた。無下に断るわけにもいかず、一応おまえに話は通す事にしてたんだ。まぁ、おまえが見ず知らずの貴族の娘と結婚するとは思ってなかったけどな」
「はぁ……」
 これまでは一度断れば諦めていた陛下が、ユイとの結婚には引き下がらなかった謎が解けたような気がする。
 陛下が穏やかな表情で問いかけた。
「おまえ、ユイと結婚したら王宮を出て行くのか?」
「そのつもりです。殿下もご立派に成長なさった事ですし、今後は私の代わりにジレット様がいらっしゃれば、寂しい事もないと思います」
「そうか。私は寂しくなるな」
 しんみりとこぼす陛下に、ロイドは笑顔で返す。
「時々お会いしに来ますよ。それにすぐ結婚するわけじゃありませんから、もうしばらくは王宮内にご厄介になります」
 途端に陛下は目をつり上げて怒鳴った。
「何を言っている! さっさと結婚しろ! 三日も寝所を共にしておいて、ユイに失礼だろう? 男としてのけじめはきっちり付けろ!」
「そう仕向けたのは殿下なんですけど……」
 ロイドがガックリ肩を落とすと、陛下は楽しそうに笑った。
「なんだ、そうか。レフォールもいい仕事するじゃないか」
 ロイドは大きくため息をつく。この親子にはかなわない。
 確かに寝所は共にしたが、キスしかしていないと言っても信じてもらえないだろう。弁明する事を放棄して、ロイドは執務室を辞した。
 朝食を済ませたら、マシンの調整とチェックを行わなければならない。部屋に戻っているヒマはなさそうだ。ユイはラクロット氏が起こしてくれるだろう。
(もう一度、キスしたかったな……)
 そう思ったが、それは次に会った時の楽しみに取っておこう。
 まだ今ひとつピンと来ないが、ユイとの結婚を考えると、随分前にブラーヌが言っていた事を思い出した。
 陛下から何度か結婚を勧められた事をブラーヌに話した時、彼は賛成も反対もしなかったが、しみじみと言った。
「結婚生活は楽しい事ばかりじゃないぞ。互いを尊重し、苦楽を共にするという事だ。恋愛感情だけでしても長続きはしないし、打算でしても楽しい生活が送れる可能性は低い。どっちにしろ覚悟が必要だな。オレは女房をあまり尊重していなかったし、苦ばかり与えて楽は与えてやれなかった。恋愛感情だけで結婚したからだろうな。若気の至りだ」
 そう言ってブラーヌは少し笑った。
 ブラーヌは一度結婚に失敗している。ロイドを拾う前の事はあまり語らないが、妻と息子を彼なりに愛していたのだろう。その言葉には実感がこもっていた。
 苦楽ならこの一ヶ月足らずで充分共にした。そう考える事自体甘いのかも知れないが、ユイと一緒なら、この先どんな困難も共に乗り越えられる気がする。そして一生、共にいたい。
 富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、死が二人を分かつまで――。



 ユイの事を思い出しながらぼんやり歩いている内に、ラフルールの中央病院に到着した。
 ロイドは受付で確認し、ランシュの病室に向かう。
 声をかけて扉を開けると、無機質な白い部屋の真ん中で、ベッドに横たわるランシュが頭を少しもたげてこちらを向いた。
 ベッドの側まで歩み寄り、ロイドは声をかけた。
「調子はどうだ?」
「いいわけないでしょう」
 ランシュは少し顔を歪め、濁ったブルーグレーの瞳でロイドを見上げた。
 ランシュと会うのは二ヶ月ぶりだ。元々病弱で痩せていたが、少し見ない間に見る影もなく痩せ衰えている。
 美しかったプラチナブロンドの髪は、艶をなくして白髪のようになり、皮膚も十八歳とは思えないほど、艶も張りもなく細かいしわが刻まれ、まるで老人のように変わり果てていた。
 それが彼の遺伝子に刻まれた宿命とはいえ、あまりに痛々しい。
 ランシュ=バージュは十八年前に生まれた、非合法の体細胞クローンだ。
 当時の未完成なクローン技術のせいで、彼の身体は十代半ばから老化を始めている。
 ランシュ自身もその宿命は承知していて、ロイドの助手を務める傍ら、精力的に自分の研究開発に取り組んでいた。まるで人生を凝縮して、生き急ぐかのように。
 そしてランシュが最後に行った開発が元で、彼は科学技術局の局員を免職された。
 ロイドの制止を振り切り強行しようとした開発は、法に抵触するものだったのだ。それが副局長の目に留まり、ロイドは局長として、やむなくランシュを免職にするしかなかった。
 ランシュは皮肉な笑みを浮かべて、投げやりに言う。
「オレに二度と悪事が働けない事を確かめに来たんですか?」
「見舞いに来ただけだ」
「見舞ってもらったって、もう長くはない事くらい自分で分かってます。最近は起き上がるのさえ億劫なんだ。だから監視だって、そこのカメラしかないでしょう?」
 ランシュは細い腕を持ち上げて、天井の隅を指差した。ロイドはそれにチラリと目をやり、すぐにランシュに視線を戻す。
 科学技術局のトップシークレットであるランシュには、子供の頃から常に監視がついている。局全体の決定事項は、局長とはいえ、ロイド一人に覆す権限はない。
 突然ランシュは、ロイドのジャケットの裾を掴んで睨みつけた。
「あなたを恨むよ。オレの命が長くない事を知ってるくせに、どうして邪魔したんですか?」
「法に背く事を局長のオレが許すわけにはいかない」
「あなただって、同じ事を考えたはずだ!」
 叫ぶランシュを見つめて、ロイドは小さく頷く。
「否定はしない。おまえも考えるだけで終わらせていれば、オレは邪魔しなかった」
 ランシュは憎しみに燃える目で、ロイドを更に睨む。
「復讐してやる。オレの大切なものを奪ったあなたに、復讐してやる」
「あぁ。いつでも来い。おまえが元気になって戻ってくるなら、復讐でも何でも受けてやる」
 ロイドがそう言うと、ランシュは悔しそうに顔を歪めて、絞り出すようにつぶやいた。
「……できるわけないって思ってるから、そんな事言うんだ……」
 怒りに満ちていたランシュの表情が、徐々に不安と悲しみに変わる。彼の目の端から、涙がこぼれて枕を濡らした。
「……先生……オレ、死にたくない。まだやりたい事いっぱいあるのに……。死にたくない……死ぬのが怖いよ……」
「人は早かれ遅かれ、みんな死ぬんだ。オレもそのうちな。オレが死ぬ前に復讐しに来い」
 ロイドはランシュの頭を、クシャクシャと撫でる。
 ジャケットの裾をギュッと掴んだまま、ランシュは声を殺して泣き続けた。



 ランシュが泣き疲れて眠るのを見届けて、ロイドは病院を後にした。
 外に出ると雨が上がり、うっすらと西日が差していた。夕焼け空に大きな虹が架かっている。
 ランシュの泣き顔が、転送間際のユイの顔を思い出させた。
 涙に濡れた瞳が、切なげに揺れていた。
 時空移動装置はもうすぐ完成する。もうすぐユイに会える。
 ロイドは空を見上げて、少し微笑んだ。




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