前へ 目次へ 次へ
7.戦の現実



 一歩一歩がもどかしいほどに和成の周りだけ時の流れが遅く感じられた。
 間に合わなければ我が身を盾とするつもりで、紗也と敵兵の間に滑り込み刀を構える。間一髪で敵兵の刀を受け止めることができた。
 そのまま紗也に言う。
「お下がり下さい」
 紗也は黙って、二、三歩後ずさりした。
 和成との力量の差を無意識に感じ取ったのか、怯えたような表情で敵兵は見つめる。無表情のまま安々と相手の刀をはじき飛ばした和成は、返す刀で首筋から脇腹にかけて袈裟懸けに斬り付けた。
 首筋から吹き出した生暖かい鮮血が、和成の顔を、胸元を、腕を赤く染め上げていく。目に飛び込んだ血の滴が視界を赤い帳(とばり)に包んだ。
 敵兵が声もなくその場に崩れ落ちた時、和成の背後で紗也の小さな悲鳴が聞こえた。
 和成は少しの間、刀を構えたままで敵兵の身体を見据えて立ち尽くした。やがて血流が途絶え絶命したことを認めると懐から手ぬぐいを出して刀を拭い鞘に収めた。
 人を斬ったのも返り血を浴びたのも、和成にとっては随分と久しぶりだった。腕に伝わる肉を立つ感触と血の匂いは、何度経験しても馴染めない。
 血の匂いがこびりついているような気がして、和成は何度もしつこく顔や腕を手ぬぐいで拭った。
 すでに乾き始めている血を完全に拭うことはできないし、着物に飛び散った血はどうにもならない。自分自身も不快だが、そんな血まみれの姿を紗也に見せるのは気が引けたので背中を向けたまま尋ねた。
「お怪我はございませんか?」
 紗也の返答はない。
 確かに箱入り君主には刺激が強すぎたかもしれない。怖くて声も出ないのか。
 肩越しに少し振り返って様子を窺うと、紗也が和成の足元にある敵兵の亡骸を凝視していた。
「あまり御覧にならない方がよろしいですよ」
 和成は苦笑しながら、血を拭った手ぬぐいを敵兵の顔にかけた。
「知ってる人?」
「いえ、存じませんが」
 脈絡のない質問を怪訝に思いながら、チラリと紗也を窺う。刺すような鋭い視線が和成を射貫いた。
「知らない人を話も聞かずに斬ったの?」
 今がいつでここがどこなのか、まるで理解していない紗也の言葉に和成は苛ついた。
「知ってる人でも斬りますよ。あなたに害をなすならば。それが私の仕事ですから。あなたに非難されようと、私は間違った事をしたとは思っておりません」
 紗也はまだ納得がいかないのか、黙って和成を睨んでいる。
 血を見せまいと背中を向けていたが、紗也の様子にたまらなくなって、和成は正面から紗也と向き合い怒鳴りつけた。
「あなたは刀を振りかざして向かってくる相手に、話ができると本気でお考えなんですか?! あなた自身が今、話も聞かずに斬られようとしたではないですか!」
 血まみれの和成に驚いたのか、紗也は一瞬目を見開いた後、半歩下がって和成から目を逸らした。
「彼はどうして私を斬ろうとしたの?」
 戦場にいながら、そんな事もわからないのか、と和成の苛立ちは募る。苛々と自らの腕につけた自軍の印を掴んで紗也に示した。
「これのせいですよ。あなたが彼の敵だからです」
 未だに困惑した表情をしている紗也に、和成は冷酷に告げる。
「ご自身が身を以て体験なさっても、まだご理解いただけませんか? 知らない者同士が個人的には何の理由も恨みもなく殺し合う。それこそ、あなたが御覧になりたいとおっしゃった戦の現実の姿なんですよ」
 紗也は泣きそうな顔で、よろよろと後ずさりをした。そして背中が後ろの木に突き当たると、その場にしゃがみ込んでひざの上に顔を伏せた。
 自分が戦場にいることを、あまりにも理解していない様子に苛立って、きつく言い過ぎた事を和成は少し後悔した。
 今まで城から出たこともなく戦とは無縁だった紗也にとって、頭ではわかっていても現実を理解できないのは無理もないのだ。
 自身の気持ちを落ち着かせるためにも紗也をそっとしたまま、電話で塔矢と司令所に連絡を入れる。そして、まだ顔を伏せてしゃがみ込んでいる紗也に頭を下げた。
「また、怒鳴ってしまいました。申し訳ありません。とにかく今は本陣にお戻り下さい。皆が心配しております」
 しばらく頭を下げたまま待ってみたが、紗也は動こうとしないし返事もない。
 和成は顔を上げて口の端に微かな笑みを浮かべた。
「私が、怖いですか?」
 紗也が少しだけ顔を上げ、和成を見つめる。
 青白い月明かりを浴びて、乾いた血がこびりついたままの、汚れた和成の顔は紗也にとって確かに怖かった。
 少し視線を落として、和成は静かに続ける。
「私を人殺しだとおっしゃるなら、確かにその通りですけどね。これが初めてでもありませんし、今まで何人斬ったかさえも覚えてはおりません。私は軍人なので戦場で敵兵を斬った事を間違いだとは思ってませんが、人を斬るのが好きで斬った事は一度もないんですよ」
 しゃがんだままひざを抱えて紗也は和成を見上げた。
「和成は私に害をなすなら知ってる人でも斬るって言ったよね。それは塔矢でも?」
「無論」
 即答した後、和成は苦笑する。
「まぁ、塔矢殿が相手だと私の方が斬られるでしょうけどね」
「じゃあ、私だったら?」
 和成は眉を寄せて首を傾げた。
「おかしくないですか? あなたがあなたに害をなすというのは」
「違うの。この場合は私が敵の君主だったらって事」
「あなたが敵の君主……」
 想像しただけで、言いようのない不快感が和成の胸に広がった。一瞬言葉に詰まったものの、和成はキッパリと断言する。
「斬れません」
 紗也は意外そうに目を見開いた。
「敵なのにどうして?」
「わかりません。咄嗟にそう思いました」
 どうしてそう思ったのか、和成自身が困惑していた。先ほど胸に広がった不快感の正体もわからない。
 紗也はそれ以上追及することなく、勢いよく立ち上がった。
「ま、いっか。和成が私を斬る事はないって事だから、もう怖くない」
 そう言って紗也は、和成に笑いかけた。
「助けてくれてありがとう」
 いつもの笑顔が戻った事に、和成は内心安堵する。
「いえ、礼には及びません。本陣に戻りましょう」
「あ、ちょっと待って」
 紗也は背中を向けて、先ほど覗いていた林の中に入っていった。和成も後ろから林の中を覗く。そこには一頭の馬がいた。
 馬を連れた紗也が街道に出てくる。手綱を受け取りながら、和成は尋ねた。
「これを追って来られたのですか?」
「うん。騎馬隊が出て行った時、誰も乗っていないこの子が後ろからついて行くのが見えたの」
 司令所の外へ出た紗也は、昼間に見た馬を思い出し厩舎へ向かった。ちょうどその時、騎馬隊が出て行くところに出くわした。
 がっかりして引き返そうと思った時、後ろからフラフラとついて行くこの馬を見たのだ。
 誰かに知らせようと辺りを見回したが誰もいない。仕方ないので、すぐに捕まるだろうと自分で追いかけた。
 ところが知らない人間を不審に思ったのか、からかっていたのか、馬は紗也からつかず離れずスルスルと逃れて捕まらない。夢中で追いかけている内に、砦を出て街道まで来てしまったのだ。
 話を聞いて和成は軽く嘆息した。
「そうですか」
 今さら怒鳴る気にもなれない。紗也が目の前の事しか見えていないのは、今に始まった事ではないからだ。
 彼女に悪気がない事はわかっている。ただ思慮が足りないだけだ。
 和成が手綱を引いて歩き始めようとした時、紗也が袖を引っ張った。
「ねぇ、乗って帰った方が早くない?」
「そうですけど、紗也様、馬に乗れないでしょう?」
「うん。だから一緒に。和成が手綱を取るの」
「え……」
 紗也の思いも寄らない提案に、和成は躊躇し口ごもる。
「ですが、一緒に乗ると身体が触れ合ってしまうので、ちょっと……」
 それを聞いて紗也は白い目で和成を見た。
「なんか、いやらしい」
 和成は一瞬絶句して息を飲む。そして、ふてくされたようにそっぽを向いて投げやりに答えた。
「すみませんねぇ。助平おやじで。あなたのお召し物が汚れるのを心配したつもりだったんですけど。私はこんなナリですし」
 和成が血の付いた着物の胸元をつまんで見せると、紗也は気まずそうに苦笑した。
 そして取り繕うように言う。
「あ、そっか。でも平気。多少汚れてもかまわないから一緒に乗って」
「かしこまりました」
 いつもの不機嫌顔で答えて、和成は先に紗也を鞍に乗せる。そしてその後ろに自分も跨がった。
「走らせますので、頭を低くしてしっかり掴まって下さい」
 紗也が鞍の前に掴まり前屈みになるのを見届けて、和成は馬を走らせた。
「ひゃあぁぁっ!!」
 途端に紗也がおかしな悲鳴を上げて身体を起こした。
「ちょっ……っと! のけぞらないで下さい!」
 和成はあわてて馬を止める。
 走り出してすぐに止められた馬が不服そうにいなないた。
「頭を低くしてと申し上げたでしょう?」
「だって、お尻が浮いちゃって振り落とされるかと思ったんだもん」
「のけぞった方が振り落とされますよ」
 大きくため息をつきながら目の前にある紗也の背中を見て、和成は益々ため息をもらした。のけぞった拍子に背中にべっとり血が付いてしまったのだ。
「ねぇ、和成が手で支えてくれない?」
「はい?」
 紗也の唐突な申し出に、和成の声は思わず裏返った。答えずにいると紗也が不安そうに尋ねる。
「片手じゃ馬に乗れないの?」
 なんだか小馬鹿にされたような気がして、和成はムッとしながら、ついつい対抗した。
「両手離しでも乗れますけど」
「じゃあ、問題ないじゃない。ほら、ここのとこ支えてて」
 そう言うと紗也は和成の左手をとって自分の腹にあてがった。
 手の平に伝わる温もりに、和成の鼓動が跳ねる。一瞬、身体が硬直したものの、すぐに心は冷静さを取り戻した。
 紗也は和成の事を男だと認識していないのか、それとも単に無防備なだけなのか。
 どちらにせよ、それに一々狼狽している自分が馬鹿らしく思えてきたのだ。
「では、今度こそ頭を低くして下さい」
 右手で手綱を握り直し、和成は再び馬を走らせた。今度は紗也もおとなしく乗っている。
 和成はなるべく紗也の背中に身体が触れないように気を配った。今更紗也の着物が汚れる事を心配しているのではない。
 落ち着いたと思っていた鼓動が、どういう訳か先程から早くなっている。それを紗也に悟られたくなかったからだ。




前へ 目次へ 次へ


Copyright (c) 2012 - CurrentYear yamaokaya All rights reserved.